見出し画像

クオリアの交差点で出会う時

わたしたちは誰かの頭の中を覗くことはできないし、共感や理解を試みても結局は自分のフィルターが邪魔をするから他人の思考についてやその人の生きている人生について、完全な真実を知ることは出来ない。
だからこそ人の数だけオリジナルな世界が存在しているのだと思う。
存在というか、表れ方というか。
同じ地平を共有しているけれど、
見えている世界は同じじゃない。

でもたまに、本当に感覚が交わるような瞬間がある。
たくさんの世界が並行してこの地平に並んでいるなかで、足元の誰も目に止めない花に気付いて足を止める人がいる。

クオリアの交差点で、
同じものを見て美しいと思って立ち止まり誰かと目が合うのってわりと奇跡的だと思う。
(クオリアがなにかって、えー、検索してください!笑)
同じ写真や絵画を見て良いなと思うその瞬間、
(音楽でも映画でも本でも良いのだけれど)、
ようやくそれぞれ生きてきた世界が、
1枚に重なったと感じる。

わたしの世界の美しい瞬間と重なるような世界が
誰かの世界の美しさと重なったら嬉しい。
そういう気持ちがもっとはっきりしたような気がする。


という前置きをしておいて笑、
少し前にわたしの大好きな本屋さんである
「本の轍」さんで開催された、
大竹昭子さんの『いつも誰かが見ている』刊行記念の写真ワークショップ
"「見えるもの」と「かたるもの」"
に参加してきたので、
記憶が薄れないうちにワークショップを経て感じた事や気付きなどを書き残しておこうと思います。

このワークショップでは、
参加者がそれぞれ「人の写った」写真を持ち寄って、
ひとまず誰が撮ったかは明かさず、
1枚1枚じっくり見ながらその写真から読み取れる事を言葉していきます。
気付いたことでも、思いつく物語でもなんでも。

例えば、1枚目に私たちが鑑賞したのは
「煙草をふかす女(仮)」と名付けられた作品で。

"部屋着のような格好をした女の人が、
ベランダのようなところで煙草を吹かしている。
時間は夜で、目の前には観覧車が見える。"


といった写真。
あと読み取れることと言ったら、うーん、
多分被写体の人と撮影者はとても親しくて、
自分の部屋に遊びにきた友人をなんとなく撮ったって感じかなぁ。
被写体の人は気取ってないし、
the撮影って感じでもなくて、
チルって感じ。日常を切り取った1枚。

わたしに読み取れたのはここまでだったのだけれど。
他の参加者の人たちは、

◼️「よく見たら室外機何台かありません?
これ、ベランダじゃなくて屋上じゃないですか?」
◼️「室外機の上に何か置いてますね、鍵かな?」
◼️「何個か置いてるのは不思議ですね」

って、
もうすごい解像度で背景を読み取っていくの!笑
(ちなみにこの写真は結局、マンションの住人たちが集まって屋上でパーティをした時の1枚で。
参加者が指摘した通り室外機の上に置いてたのは鍵。近くの部屋の人のトイレを借りられるように
室外機の上にみんなが鍵を並べておいておくルールだったらしい。)

そんな感じで1枚1枚見ていくのだけれど、
わたしになんとなく分かるのはせいぜい
「被写体と撮影者の関係性」くらいで
背景については本当に、衝撃を受けるくらい何も気付かなかったんだよね。笑
参加者の人たちの持っている目や感覚はわたしよりずっと鋭くて、
写真の中に潜むヒントを掬い上げる視線は、
じっと狙いを定めて獲物を捉える猫みたいだった。

もちろん、わたしが持ってきた写真も、
場所とか関係性とか写真を撮った時の感情とか
ほとんど全部ばれてしまったような感じがして
少し恥ずかしくて。笑
でも、そんなに分かるんだってびっくりした。
そして、1つの作品が時間をかけて鑑賞される時、
作品は作り手が思うよりずっと細部まで見透かされる。
っていう気付きはちょっと、なんていうか、
雑にじゃなくてちゃんと丁寧にやっていきたいって思えたな。

このワークショップを通じて、
正直なところ、わたしの見えている世界がいかに抽象的かが浮き彫りになったような気がしたんだよね。
わたしには、他の参加者の人に見える情報が見えない。
背景が分からない。
写真の中にいる彼や彼女は、ただ彼らの生きている世界の中で色々な感情を持って生きているのが伝わるだけで、
「この自転車大きすぎない?お兄ちゃんの借りたのかな」とか、
「後ろの本棚の本、80年代の本が多いですね。
ジャンルはバラバラ。数は多いけど、売り物じゃなさそう。研究室かな。」とか、
そういうことは多分1週間くらい眺めてないと出てこない答えで(笑)、
それはわたしの世界に対する捉え方そのものにとても近いのだと思う。

だから、それがカフェでも海でも良いのだけれど、
"カフェにいる君"というよりは、
"君がカフェにいる瞬間"を見てるんだなっていうか。
やっぱりわたしの世界の真ん中にはそこにいるべき"人"がいて、その人がいるから全ての場所には意味があるんだと思う。
多分わたしの頭は、好きな人たちといる時はいつも"人"に焦点を当てていて、
"その人がいる場所"として世界を捉えているんだよね。
だれでもなく、ここにきみがいた一瞬を撮りたくてシャッターを切る。


そんな風に、このワークショップを受けて
他の人と比べて自分が世界をどう眺めているのかが分かりやすく比較されたのがすごく面白かった。
単純に、
あ、全然世界の見え方が違う(笑)っていうの
面白くて。

でも、わたしたちはやっぱりここで出会うから。
わたしが持ってきた写真を見て、
参加者の人たちや大竹さんに、
「光も表情も本当に素敵な写真だと思う」って言ってもらえたの本当に嬉しかった。
わたしが良いなと思った世界と同じ世界が、
理屈とか関係なくみんなの中にも広がっているのを知れるのって本当に嬉しい。



「このワークショップに持ってくる1枚を選ぶのにあたって、"人にみせたい写真"としてどれを持ってくるか考えたと思うし、そういう写真には語りたいストーリーや理由がある。
そして、そのシャッターを切ったキッカケは写真の中に冷凍保存されていて、写真から滲み出ている。」
これはワークショップの最後に大竹さんが言っていたとても印象的な言葉。

写真が「作品」として誰かの前に提示される時点で、そこには作り手の想いが乗っている。
美しいと思った一瞬には、それを美しいと思うに至るその人の価値観を作ってきた人生があるのだし、
写真の中に彼や彼女が写っているのは、
そうじゃなきゃいけなかった理由がある。

私が撮ったポートレートを見て「素敵だ」と思ってもらえるのって、私が撮った被写体の子のいる世界の美しさの感覚を共有出来ている感じがして嬉しい。
この美しさを誰かと重ね合わせることが出来るんだなぁって。



ところで私、このワークショップの後にまた別の写真のワークショップに参加してきたのでその体験についてもまたまとめたいのだけれど、
2つのワークショップで共通していたのは、
「写真を時間をかけてよく見ること」の大切さだったの。

今はスマホで写真を撮る機会も多いのだけれど、
写真をじっくり見る機会は少ない。

でも、本当はインスタでも写真展でも写真集でも、
誰かが「見てほしい」のサインを出して世の中に提示した写真には、目に見える以上の物語が乗ってるんじゃないかな。
大竹さんは、「写真はあらゆる想像を許す曖昧さや許容があって、それも面白い」って言ってて。
自分が撮った写真の物語と、誰かの心の中に想像される物語が偶然重なって立ち止まるとしたら、それも素敵だなぁと思う。



なんか、色々書いてきたんだけど、
これからもちゃんと、自分が心から良いなと思う写真を丁寧に撮っていきたいな。
特にポートレートは、被写体の子の人生を通して自分を表現することでもあるから適当に消費されるような写真は撮りたくない。
良い写真を目指すってことは、私が撮った写真を良いなと思ってくれる人に対しての誠実さでもあると思うから。


今回のワークショップを通して、自分自身の世界の見え方と写真への向き合い方がよりクリアになった気がして、もっと色んな人の写真を時間をかけてみてみたい気持ちにもなったかも。
わたしの写真の前で誰かが立ち止まるように、
誰かの撮った写真の前でわたしが立ち止まる時、
同じ交差点で立ち止まって同じ景色を良いなって共有しあうような素敵さがある。
それを分かり合える素敵さ。


最後なんて締めれば良いのか迷ったんだけど笑、
こうやって思考を整理する機会ってなかなかないし、ワークショップ参加して良かったなって思ってるよ。
また別のワークショップに参加した時のまとめも後日書きたいのだけれど、大竹さんのワークショップが写真を撮る上での内面的な部分に関わるとしたら、それは技術面について大きな学びがあって、
まだまだわたし学べることいっぱいあるから伸び代あるーー!って思った!!!笑

そして写真について理解を深めて成長していきたいと思えるのは、わたしには好きな世界や人がいるからで、それらがどんなに素敵かちゃんと伝えたいからなんです。
もっと良い写真が撮れるようになったその先で、たくさんの人に立ち止まってもらえたら嬉しいな。
そんな気持ちでシャッターを切ります。
なので。
どこかの交差点で出会えるの、待ってるね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?