どうやったら自分軸ができるの?
※この記事は、まだまだ実践途中です。随時更新します。
1.ノウハウでない自分探し
どうも。MIZU(@3477mizuku)です。
ライフハックの一環として、生命観、死生観というものを眺めることを日課としている。
なぜなら、どうも食べるために生きるわけではなさそうだからだ。
自分探しと聞くと、スピリチュアルや宗教、精神世界を指すかもしれない。
僕自身、それが良いとか、悪いとか善悪で裁きたくなる気持ちもある。
この記事は、過去に様々なことを見聞きして、じぶんがじぶんに問うて獲得してきた価値観である。
なので、無理して読んで!とは言わない。
合わないものを読むほど、ひとは器用では無いと思うし、僕自身が一番嫌だからだ。
たまにSNSでクレクレ君(ちゃん)と遭遇することがある。
フォローして、読んで、わかって!というのをアピール?するのは良いが、
まったく読み手の気持ちに立っていると考えられないと思われる。
なぜ、クレクレ君が嫌なのか?というのは、ぼく自身が過去、クレクレ君そのものだったからだ。
じぶんの頭や感性で捉えるのではなく、ただ受け身に上司、先輩からの考え方を鵜吞みにする。
とにかくノウハウが欲しいのである。じぶんに自信が無いから、鎧かぶとを身につけたいのである。たとえ、借り物でもいいのだ。
ひとによっては、それが学歴、資格、肉体かもしれないが、ぼくには取り柄がなかった。
だから過去のじぶんを否定している限り、クレクレ君の存在を受け入れられない、ということが分かったのである。
ノウハウがあれば、じぶんに自信がつくと思い込んでいた。
仕事でもビジネスでも成功哲学でも先輩の言うことを守ってきた。
ただ、血のにじむ、身がすり切れるくらい実践したか?というとそこまでやっていない。反発しながらやっていたから、結果なんて散々なものだ。
挙げ句の果てに、うまくいかないのは、先輩のせいと言って、やめた団体やビジネスもあるくらいだ。
「あいつのせいだ」「お前のせいだ」という心グセが染みついており、すべてひとのせいにしていた。
で、うまくいったら「俺がすごいからだ」と天狗の道をすすんでいた。
我ながらひどいやつである。
真逆に結果を出すひとは、総じて素直であると思った。
素直なひとは羨ましいと思った。
こういった中途半端な人生を送ってきたので、
じぶん自身を確立して軸を作るには、時間も労力もかかった。
6年前、34歳の時、知人から一冊の本(宇宙聖書)をいただいた。
そこに書かれている人生の目的や死後というものに意識を向けることで、まったく見えない世界が徐々に自分に広がった。
おそらく、キャパを広げたい気持ちがあったのだろう。
じぶんなりに色々と違う価値観を身につけたかったのだろう。
当時は、公務員として働いていて、じぶんなりにキャパの伸びしろに限界を感じていたところだったから、人生の目的、死生観を聞いたときは、衝撃だったのだ。
正確にいうと、初めて聞いた時は、「ふーん」くらいで、徐々に年月とともに、重いパンチとなって心に響いて感じられるようになったのだ。
「井の中の蛙、大海を知らず」ということわざがあるように、
自分だけの価値観なんかたかが知れているのである。
職場と家の往復だけでは、価値観なんて変わらないし、器なんて広がらないという自覚だけはあったのだ。
何か本を読みあさったり、ひとに会って話しを聞いたりすることで、
次のじぶんの行動を決めていたのである。
そうやって、借り物から少しずつじぶんの頭や感性で捉えるようになり、
クレクレ君から変化してきたように思う。
でも、takeばかりひとに求めてきた時期があり、そうしてこないとじぶんを保てなかったことに気づき、
そこを反省して、改める努力はしたと思う。
例えば「ぼくはこの仕事辞めた方がいいんですかね?」と他社の先輩に聞くとする。
そもそも、なぜなのか?
いままで会ってきたひとで、じぶんで決められない人に共通していることは、「なぜ?」が無いようにおもう。
「動機は最後までついて回る」という言葉がある。
何のために行動するのか?これは、ビジネス書や様々な情報に出回っている手垢のついた情報だ。
でも、じぶんの言葉として理解して呑み込んでいることとは別なのだ。
上記は、例に過ぎないが、どうしたらいいか分からないときは、じぶん自身になぜ?を問うてもいいかもしれない。
動機が定まってきたら、すべてじぶん発信になるので、
take、クレクレにはならなくなる。
といっても、意識しないと難しいのだが(笑)
なぜなら、主語は「私」だからだ。
人生におけるすべての決定権は、ほんとうは「私」なのである。
脱線して、長くなったが、
自分軸探しということへの答えは、
「なんのために生きるのか?」
「そもそも自分は何によって生かされているのか?」
「この地上生活の行く末は何なのか?」
「生と死は誰もがくぐる道。死とはどういうこと?」など、
生きる目的をじぶんの言葉で見出すことだ。
上記の「宇宙聖書」には、著者の言葉で、人生の目的、いまの地上生活が何のための準備とは書かれているが、
それは、あくまでも著者の経験、感得から導き出されていることで、ヒントとはするものの、
じぶんで悟っていくしかないのだ。
誰も私の心の中はわからないのだから。
一朝一夕に、軸はできないが、日々そういったことを意識して過ごすことで、
少しずつ意識のなかに生命観、目的観が芽生えてくる。
じぶんから生み出されたものだから、これを大切にしたい。
ノウハウというのは、先人の教えと思うのだ。
当然、経験則で成功確率も高いだろう。これを素直に取り入れると同時に、しっかりとじぶんの頭で考え、思案していきたい。
しっかりと、じぶんの想いからひねり出したいのだ。
2.今を生きる
根本的に、ひとは「今」生きている。それを自覚しているか無自覚なのかは、わからない。
ほんとうは、ただただ「今を」生き、生かされているのである。
神様や何かしらの外的な存在に生かされているのではない。
「私が」自己決定して生命をやっているのである。それも人間であることも決めている感覚だ。
強いて言えば、人間なら次なるサムシングに進化したいとも思っている。
内なる僕の声だ。内なる僕=心、魂、真性、神様、宇宙の声、なにかわからない。読者の判断にお任せすることとする。
この記事では、総称して「内なる僕」で統一したいと思う。
内なる僕を発見するまで、じぶんがそう決意してから、何年もかかっている。
しかも、その内なる僕は、じぶんからは何も主張してこないのだ。
「ぼくはここにいるよ」とも言わない。
ただ、待っているのである。僕の魂がそこにたどり着くまで。
その観点から、死も生と対極で、生と死がただ、生々流転というか、ぐるぐる回っている概念のように見える。
心臓が止まったら、死。動いていたら、生。
これは肉体的な理論だろう。
物理、科学では当たり前だと思う。
まだ悟れていなくて、なんとなくだが、心臓が終わって、肉体が終われば死では無い気がする。
それが、はたまた魂が死後の世界に行くのか、じぶんの作った感情の世界に行くのか、
確実にはわからない。
ただ、ある日寝起きに感じたことが、「あ、死んだら感情の世界に行く、よくも悪くも」という感覚だった。
だれかが作った世界に行くのでは無いみたいだ。じぶんが感じた世界に行く、シンプルだったんだ。
神、仏、宗教、スピリチュアルが指し示した世界観ではなかったのである。
全部、じぶんが主語だったんだ。
これを感じて、真逆に安心した。
外に答えはなかったんだ!
すべて、じぶんの内に答えはある!
だから、じぶんに問おう!
これが腑に落ちてから、スピリチュアルや宗教、精神世界、外にあるものを信じていること自体が嘘だと思えるようになった。
なぜなら、教祖、代表者が感じたことを教義を教えとして伝えているからである。
それなら、じぶんを信じてあげようと。
だから、3,000年前の仏教を信じるというのは、過去の遺物であり、「今」事実でもない。
卓越した部分もあるだろうが、「今」の時代には合わない。当時の教えなのだから。
とある仏教のYouTubeを見たが、当時の教えを無理やり現代に当てはめていたのをみて、違和感しかなかった。最近はSNSでも布教が盛んなのか??
こうやって書きながら、思い出して、モヤモヤしている笑
ついつい傲慢な軽蔑グセが出るのだ。「あいつら何もわかっていない」と感じる。
実はぼくが一番わかっていないし、否定があることを認めていないから、、そういった現象に遭遇する。
だから、これもじぶんが主語なのだ。
「わかっていない」と感じるのは、僕だからだ。ごめんなさい。
答え合わせは、常に内なる僕とする。
今、この瞬間の僕は、地位もいらない、お金もいらないのである。
1秒後、1分後、10分後、、、
地位、お金は必要だろうか?
という風に、じぶんの意識の置き所を変えてみる。
瞬間、瞬間に意識はコロコロ変わっているはずだ。
極端に、一日一生としても必要なお金、地位、名誉っていかほどだろうか?
1日で細分化してみると、意外と必要ないことがわかる。
例えば、20歳の若者が、年金のことを考えていると、40年後のことを考えているのである。
「今を」生きていないことになる。
過去はどうしようもないし、未来もわからない。
僕だって、すぐに不安になるし、妄想も抱くことだった多々ある。
だからこそ、「今」に意識するのだ。
今の積み重ねが未来を作るわけだから、出来るだけ不快に気付いて、気持ちをポジティブに転換してあげるのが、今の僕に出来る役目なのだ。
結果として、それがストレスの少ない生き方では無いだろうか?
今を生きることができたら、環境、他人、両親、先生、パートナーのいうことに一喜一憂しなくなるはずだ。
客観的に線を引いて、見ることが出来るはずだ。
自分と他の間に意識で線引きして、関わる。
なぜなら、過去や未来というバーチャルなことに思いなやむのではなく、
今を生きる心のクセに転換する努力をするためだ。
少しずつでも、過去を許して、未来には思いを馳せない練習、訓練をすることで
気楽に生きられるようになりたいのだ。
まだまだ僕もトライ中だ。
偉そうなことは言えない。
今という瞬間を、、しっかりと人生の目的を見据えたうえで、何のために今を生きるのか?を自分の腹に置く。
それは私が、私が定めた人生の目的を達成するため。
私と他には、意識において線引きをする。
たとえ、両親でもパートナーでも、友人でも、時間でも、環境、社会、外的なものすべてである。
線引きをした後にわく感情は、「わたし」そのものであり、
良きにつけ、悪きにつけ、それがわたしである。
特に悪い心グセ、不快が出たときに、それを認めて、本心(善い心グセ)に転換する努力をする。
そうすることで、ありのままで、感謝、喜びで受容することが出来るようになると思うのだ。
今をじぶんなりに意味や意義を感じて生きられるようになりたいのだ。
なかなか実践できないので、
こうやって、自身にハッパをかけていきたい。