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プライドと自尊心を粉々に破壊する
1.ありふれた職業で世界最強
どうも。MIZU(@3477mizuku)です。
好きな小説のなかに「ありふれた職業で世界最強」がある。
これは、「小説家になろう」というなろう系に属するものだが、訳もなく俺TUEEEは好きではない。
ここでは、様々や創作小説を読むことができる。一時期流行した異世界転生ものも読むことができる。
好きではない理由は、楽をして得た力を持つ主人公は、堕落性を発揮してつまらないストーリーを奏でるからだ。作品名は挙げないが、なろう系ではそういった欲望だけを満たすために力を行使している主人公もいるのだ。読んでいても、心おどらないし、疲れるだけなのだ。当然、誰でも堕落性はあるが、その欲望に負けていてはそこから脱出もできないからだ。
「ありふれた〜」の主人公、ハジメは、大人しめのオタクキャラ。あるきっかけで、クラスメイトごと異世界に召喚され、ひとりひとり適性のある無しにかかわらず、職業に就く。
このハジメがプライド、自尊心を破壊した人物の例だが、ビフォー〜アフターの差が凄すぎるのである。
ハジメはクラスメイトと比べて、レア度の低い職種につき、肩身の狭い思いをするが、訓練として向かった迷宮でクラスメイトに裏切られて、そこから散々死ぬような目に遭いながら、白髪になり、絶望を噛み締めて這い上がってきたのだ。詳しくは、ここではあげないが、小説やアニメを観ることをおすすめする。
ハジメは、若干17歳にして、ありえない強さとパートナーを手に入れるとともに、厨二病バリバリの自信キャラに変貌を遂げるのだが、その過程はどうあれ、過去のじぶんを粉々に破壊しているのだ。
動機は、クラスメイトに対する憎悪や常人ならざる絶望からスタートしたが、そこから、じぶんの軸を作ってきているのだ。軸を原点として、必ず異世界から元の世界の故郷に戻るための、負の感情を意志力としてじぶんに対して踏ん張れる力に変えているのだ。そのための犠牲や容赦のなさ、手段を選ばない部分をあるが、なにを言いたいのか?というと、一旦、じぶんを破壊しているのだ。その工程、プロセスを無視して、新しいじぶんを創造できないのだ。
片腕と片目を失い、徹底した肉体破壊も後押しし、執念と失望、ネガな感情をむき出しにするハジメが、ぼく自身の思春期の一定した劣等感、差別感、悔しさとオーバーラップした。
どうやら、自分の中に似た感情があり、なんとかしようともがく姿に惹かれるのだろう。
ハジメは、内向的はオタクから、自分に敵対するものは●すという思想を持った人物に変貌を遂げるが、すべては故郷に帰るためであると書いたが、それだけではなく守るもの(恋人のユエや仲間)を得ることで、尖りまくった角が取れていく。ハジメは、受け身で与えられて、居場所を作るのではなく、自分の目的のために冒険を進めていくなかで、仲間と出会い居場所を作っていくのである。当初は、ネガティブ一色の獣同然のハジメも、仲間との関わりの中で違う一面を創造していくのである(どSっぷりは変わらないが)
試練や壁にぶち当たると、「そうだ…ユエや皆と故郷に帰るんだ」と目的に立ち戻り、自分を奮い立たせ続けたのである。それだけ、目的や軸を得るというのは、精神的な軸になる。これは、物語終盤までもブレないのだ。
そのブレなさに仲間が集まり、惹かれていく。
なかなか、そこまで殺伐とした世界観が実感できない日本であるので、目的観を持ち続けることは容易ではないと思う。
人間だって、本来は目的が何かあるはずなのだ。心とか魂といった自分の本体である部分に関係していると思うのだ。
なぜなら、仕事や名誉などで努力しても、いずれ無くなるものだからだ。
事実、イヌに「俺は●●社の課長だ!」と言ったらどういう反応をされるだろうか?
イヌやその他動植物が、手放しに称賛したら、それは自然の摂理にあり、真理であろう。
人間の作った名誉とか地位といったものは、どうやら他の生物、物質には関係のない概念なのだろう。
人間、誰しも長く生きれば生きるほど、プライドと自尊心が身につくのではないだろうか。ぼくはプライドと意固地の固まりである。変に譲らない、変に心を閉ざす、何か意地を張ってひたすら変になろうとした。そんな自分をプライドでコーティングする。
昨今もSNSの中傷誹謗で法改正まで、政治家まで巻き込むことになっているが、そもそもうっぷんを晴らし、非難したいくらいならSNSをやめるという選択肢もありかもしれない。
異世界の生物が跋扈しているSNSのような世界に参入するリスクをおかす必要もないのだ。誰も傷つけないし、誰も傷つかない。
むしろ、ぼくがこわいと思うのは、無意識に加害者に属してしまっているときだ。
ひとを徹底的に攻撃したい思いと、自分が正しいと思う、ゆがんだ自己正当性。大多数が正義と思い込む危険性。
誹謗中傷は、良くないのは当たり前であるが、著名人や情報発信者が、こぞって「ダメ!!ぜったい!!」と声をそろえて言うのにも違和感がある。
ぼくもダメなものはダメである。
なんか注意喚起が浅いのだ。
知りたいのは、「なぜ、誹謗中傷をしてしまうか?」ではないだろうか。
今回は、これはテーマではないので、別記事にて取り上げよう。
SNSは顔が見えない故に、ひとりひとりの精神性、人格、霊格が問われると思うのだ。ぼくは極力、画面の向こう側に生身の人間がいると思い、ひとりの人格として尊重して相対したいのだ。
なぜなら、自分がそうされたら嬉しいからだ。嬉しいことをひとにもして差し上げる。その連鎖を意識するだけでも、心温まらないだろうか?
話は戻るが、プライドや自尊心を粉々に破壊、としたが、そのちっぽけな価値観を肌身離さず握りしめておくことが、他者とのあつれきと葛藤を生む原因にもなる。
広い意味では、地球グセ、人間グセといっても過言ではない。どれだけ、おのれが地球のために貢献したとて、広大無辺なる宇宙から見ると、チリにも等しいのだ。そんな宇宙大の視点で見ると、人と人との争い、比較、優劣なんかしょーもない、と思わないだろうか?
もしくは、自分自身がネコやイヌのようなペットの立場だとして、飼い主と他人が喧嘩しているのを見てても、冷ややかではないだろうか?「は?なにやってるの?」くらいの温度感ではないだろうか?
それくらい、人間同士の喧嘩、争いは、ミクロからマクロ、ほかの生物または、宇宙からみてもどうでもいい価値観なのである。
冒頭のハジメは自分を壊して新しい価値観を持つに至ったひとりであるが、なぜその価値観を捨てられない、壊さないのか?ということを考えてみよう。
2.なぜプライドと自尊心は捨てられないの?
壊すという表現が過激なら、捨てるでもいい。お部屋の断捨離にもあるように、捨てるとスッキリするのだ。それは、心もあてはまる。そう簡単に捨てられたら苦労しないよ!というのも分かるし共感できる。なぜなら、僕自身捨てるのに苦戦しているからだ笑
この肉体のクセとして染みついたプライドと自尊心のおおもとは、両親への反抗または、自分で選んだ人生のシナリオへの失望が積み重ねられた結果と思うのだ。
とあるワインおじさんはこう言った。「自分の人生は、すべてシナリオ、グランドデザインを自分で決めてきたんだよ。両親の受精卵も自分で選んできたんだ。だから、両親が優秀な子が欲しいといっても、そうとは限らない」と。
自分が自己決定した、選んだというところが心に響いたのだ。
自分で選んだにもかかわらず(無意識下)、期待通りの両親じゃなかった。期待予測どおりの人生じゃなかった。なんで、私なんか産んだんだ。など一度は考えたことはあるだろうか?
ぼくは思い通りにならない悔しさを両親のせいにしてきたのだ。この家に生まれたから、とか適当な理由をつけて、両親に責任をなすりつけたのだ。どんなにご飯を食べさせてもらって、学校にも行かせてもらって、習い事をさせてもらって、なに不自由なくても!!
当然、今世では自分で選んだなんか記憶として覚えていない。なぜなら、それは魂の記憶であり、未来のことがわかってしまったら自由でなくなるからだ。わからないから自由なのだそうだ。
宇宙には自由法則が優先されているらしい。
両親や自分に対する不快な感情からの転換には、自立が必要になる。ここでいう自立は、精神的な自立だ。しいて言えば、自分の感情にのみ責任を持つこと。感情がどうなのか?に集中することで、余計な外部の情報、現象に惑わされなくなる。
この感情の正体がわかってくると、あとは破壊するための準備だ。破壊というのは、学術的なことはさっぱりわからないが、
物体でイメージすると、引力と斥力が真逆の力とベクトルでぶつかって、ぶつかった分だけ破壊するエネルギーに転換されるものだと思う。言いたいことは、真逆の力でぶつかり合うこと。
冒頭の両親への反抗、自分が選んだシナリオへの失望があれば、その逆は、自己肯定、自己受容と思うのだ。自分が選んだ両親、人生なのだから、どんなことがあろうとも、自分で決めていくのだ。それでいい。これでいいのだ。自分を否定することで自分を悲しませたくないのだ。バカボンのパパなのだ。
すべて自分が決めた目的のために、例えば死後の世界の準備のため、サムシングな生命体に進化するため、あの世に成仏するため、なんでも自由だ。
この世で成功するために生きていては、死の手前がゴールになってしまうし、それでは死の意味すら無くなってしまうのだ。目的のゴールテープは、死後に置く方が至極まっとうである。死後をどうにかするために、今生きているという発想を持ってみたら、胸やお腹のあたりがスーッとしないだろうか?
死を不安と恐怖から解放するために、少しでも心とか魂を軽くしたいものである。
唯物主義、見えないものを信じられないなら、紫外線、赤外線、電気、空気、電波などの存在を否定しなければいけなくなる。
それでは、人間は霊長類といわれる所以が訳わからなくなる。おそらく、霊的な何かなのだ。長だからこそ、食物連鎖にあるすべての生物、物質を認識、区別、理解できるのである。これができているのは、地球では人間だけだろう。虫が人間や地球を認識、理解しているはずがないのだ。
地球レベルでは高次元な人間が、自己不信や他人にプライドや自尊心を振り乱していたら、他の生物、万物に対してカッコつかなくないだろうか?
皆、見ているのである。人間だけでなく、鳥もペットも万物も。地球のトップたる生き方ができているだろうか?見本となっているだろうか?という視点で見てみたら面白いかもしれない。
不謹慎かもしれないが、いま病気や怪我、不幸中のひとはチャンスかもしれない。なぜなら、難はじぶんを徹底的に破壊できるチャンスだからだ。
ぼく自身も骨折によって、心も大きく破壊できた。その分、成長できたと思うのだ。
プライド、自尊心というのは、人間限定の価値観なのである。人間という一生物で争いあっている醜い、傲慢な生き物なのだ。
だからこそ、謙虚、謙遜になりたい。自分の人生に対する肯定感、努力してきた自分、いっぱい苦しんだ自分、いっぱい許してあげたい。
だって最後の最後の味方は自分しかいないのだから。だって誰が自分をほめてあげるんだ。
365日、24時間、自分と共にいるのは誰?
真逆の価値観がぶつかり合い、破壊されたときに、プライドと自尊心は粉々に砕け散るのだ。メガンテのごとく。
破壊されたら、心に余白ができる。その余白に新しい価値観の自分を作ってすきまを埋めてあげるのだ。
一度、破壊したからといって、自己不信や両親に対する反抗、恩讐はそう簡単に消えないだろう。減ることはあっても一生、肉体がある限り、ついて回るものだ。
でも、変わり続ける自分をあきらめないことで、必ず転換できる日も来るのだ。
プライド、自尊心を持っちゃダメではない。気づいて、認めて、真逆を見つけて、破壊したらいい。たとえ1mmでも。その繰り返しなのだ。
3.ぼくのプライドはどう壊しているか?
では、ぼく自身に当てはめて、どうやってプライドや自尊心が形成されてきたか?というと、
両親、とくに母の期待に応えたくて、母の求める「長男」「男の子」を演じてきた。
それも本当に母が心から求めたすら事実はわからない。ふと何となく言った一言、一挙手一挙足、母を観察して育ってきたように思う。
母がこう言ったから、こうする、こう振る舞う。怒られたくないから、こうする。
母が嘘をつくわけがない。と教祖のように盲信し、恐れながら従った記憶がある。
良く言えば、柔軟性がある。素直。
悪く言えば、主体性がない。自分がない。
ただ、身内からも「MIZUは素直だなぁ」と褒められて育ったので、
素直な自分にはネガティブな感情を抱いていなかった。
こうやって、人の目、人のふりを見て育ってきたので、自分の考え方に反するもの、違うものを受容する、受け入れる器にはならなかった。
ただただ、反発するだけ。でも面と向かっては言えないので心でビクビクしながら、反発する遠吠え狼のような人格が形つくられた。反発することで、自分の存在、居場所を作ろうとしているのだ。そうしか表現できない精一杯の自分だった。辛いけど、そうするしかなかった。
おちょこのようなキャパで、人と接するものだから、友人も(なに考えているんかわからない)というような奇異な存在として、関わっていたように(思う)。
事実は確認できない。これもぼくのフィルターだ。
そんな自分を演じてきて、妹が産まれて愛の枯渇を感じて、両親に必死に愛してアピールをした。それの積み重ねで、病(慢性腎不全)や自己不信の固まりが勝る人格が作られていく。
さらにやっかいなのは、このネガの固まりのぼくでさえ、いざ破壊するとなると積み重ねてきたことを失いたくないのだ。
記憶にあるうちに、最初に心が破壊されたのは、社会人3年目のうつと躁。この経過も別の記事で詳しくは書こうと思う。
なにも気力がなくなり、ボーッと人間になった。何のために働いていたのか、何のために生きているのか?漫然と考えるようになった。
あとは、職場復帰すると怒られて、ドン引きされるだろうなぁという恐怖と不安である。
このうつと躁を通じて、自分を見直すきっかけになり、自分を肯定できる部分もできてきたのは間違いなかった。
結局のところ、仕事で追われる現象だったものの、自分が感じることをダーーーーッとノートに書き綴った。
訳の分からないことばかり書いていたらしいが、そのノートは今は必要ないと思い捨てている。
ネガティブな感情を認めた分、ポジティブに転換し、破壊できたのだ。
積み上げてきたものを壊すのには勇気がいる。
壊し方も様々あるだろう。一旦、今の自分を全否定しなければ壊れないこともあるだろう。他人からの言葉、行動が要因として壊れることもあるだろう。一見ネガかもしれない。
全部、新しい、なりたい自分になるためにあるのだろうと思う。
「海賊王におれはなる!」と1人でも決意したルフィのように、
なりたい自分はなになのか?
それはなぜなのか?
動機がスタートでゴールなので、全て原因から結果までつながっているのだ。
冒頭のハジメのように、ルフィのように、貫くものはあるのか?
なければ、いま、どうしたいのか?
具体的であればあるほどいい。あいまいだから諦めるのだ。
誰しも、強烈に自分の心が奮い立つなりたい姿があると思う。
とにかく、人間グセなんかクソくらえなのだ!
いつまでもしがみついてて、しみったれた人生なんてクソくらえ!
トラウマの総合商社みたいなぼくですら、こうして今も、もがいて生きているのである。
とにかく、破壊を大切にしたいのだ。
ひと回りでも大きなひろい自分になるために。