流暢に話せる人間を演じること
6年前、新卒で入行した金融機関の仕事を辞めるまでは、吃音を隠して流暢に話せる人間を演じていた。
業務は窓口対応、電話対応、朝礼当番、会議での発言、イベントでの窓口……。
流暢に話せない自分を押し殺して、仕事に対して「NO」と言わない自分を演じてきた。
29歳の時、その自分を保つことに限界が来た。
突然だ。
12月頃に話すことに意識が向くようになり、もう無理かもしれない……と毎日が異様に辛くなった。
そして3月には会社を辞めていた。
「流暢に話せる人間」には、失敗が許されなかった。
いや、多分ほとんどの人が私に吃音があるなんて気付いていなかった。
当時の自分は話すのが得意だと自負していたし、電話は1コールで出たかったし、支店代表で会議に行くのが嬉しかった。
この時から、吃る自分を周りの人に少しずつ見てもらえばよかったのかもしれない。
「流暢に話せる人間」にとって、吃ることは悪だと思っていた。
周りの人たちに吃音を打ち明けて、人前で話す機会を最大限になくすこと。
人に助けを求めること。
この選択をしたのは、生きやすさを大切にするためだ。
周りの人たちの理解もあって、今はあの頃よりも随分と生きやすくなった。
今は「自分では変えられない辛いこと」がない毎日を過ごしている。
でも今の自分の方が幸せであるのか、あの頃の自分の方が幸せであるのかは分からない。
正直、まだ最善の選択は何なのか、人生に迷っている感覚がある。
ただ多分私は、「吃ろうが弱かろうが自分はありのままで良いんだ」と思える心を身に付けなければ、いつまでも迷い続けるのだろう。
吃音を自分の中から消滅させなくても、幸せに生きることができる。
この言葉が嫌いだった。
消さないと意味がないじゃん、どうやって生きるんだよ、何が分かるんだよと本気で思っていた。
それでもやっと、会話で吃ったって相手との関係性は変わらないんだ、吃る自分のままでも生きていけるかもしれない、そう思えるようになったのは、献身的に話を聞いてくれた吃音の知見を持つとある先生と、認知の歪みがなく人や社会を正しく見ることができる夫のお陰だと思っている。
流暢に話せる人間を演じたことも、仕事を辞めることも、
その時の自分が、その都度必要な選択をしたのだろう。
その時はその道しか選べなかった。
だから仕事を辞めた自分や、人と気楽に関われない自分を、そろそろ受け入れてあげてもいいのかもしれない。
居心地が良い職場なのかどうか、人によって捉え方や感じ方が違う。
だから色々な仕事を試してみて、自分に合う仕事に巡り合えたら良い。
どのような仕事であっても長続きする、友人や家族と比べたって意味がない。
心の状態は変わっていくのだから、やりたい仕事も変わっていくかもしれないけど、それでいい。
吃音だって、腑に落ちる考え方や、気楽に言葉が出る方法は、人によって違う。
だから吃音改善だって自分の性格、精神状態、声の出し方などを理解しないと、最適な方法が見つからないのではないか、そう思う。
だから試行錯誤して、自分にピッタリとハマる改善方法を見つけていけばいい。