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デイケアは終わらない。でもプログラムは「終わり」が肝心
デイケアは終わらない。でもプログラムは「終わり」が肝心
「デイケアの中のひとが語る、精神科まわりのあれこれ」#35
デイケアでは、施設ごとに違いはあるものの、キャンプや文化祭などを含めた、さまざまなプログラムが工夫されています。
患者様は、デイケアを利用される時、終わりを決めずに参加される場合がほとんどだと思います(もちろん、「就労するまで」といった期限を切ることはありえますが)。
※一部のデイケア施設は、通所できる期間に制限を設けている(1年とか2年とか)ところもあります。
精神科デイケアが治療対象に想定している、統合失調症などの精神病は、慢性の経過をたどる(治療に時間がかかり、時に「付き合う」ような姿勢が患者様にも求められる)ので、治療期間に縛りを設ける、という考え方にそぐわないのです。
患者様は“時間を気にせず”、決まったスケジュールをこなしていきます。いわば、デイケアには「終わりがない」のです。これはデイケア治療の特徴の一つといってよいと思います。確かに、デイケアでの活動が充実していても、それが“いつか終わってしまうんだ”と思っていると、心から楽しみにくくなりますから。
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ただ、現実には、私たちの人生(大きく出てすみません)で、“終わり”のないものはありません。そして私たちは、概して「終わりに弱い」ものなのです。「浦島太郎」などはその典型で、竜宮城で時を忘れて楽しんでいる間に、村に帰りそびれ(竜宮城生活を終わらせられずに)、気がついたらウン十年も経っていて、取り返しがつかなくなった、というお話でした。
デイケアプログラムでも、何かの“終わり”に調子を崩してしまう患者様がいらっしゃいます。よくあるのは、キャンプや文化祭などを楽しんだ後、その余韻から醒めることができずに、そのまま調子が上がってしまい、最悪の場合、精神症状が再燃してしまう、といったケースです。
類似した状況(何かの“終わり”)としては、患者様が突然亡くなる、というものや、スタッフが退職する、というものが考えられます。これらについては、別の機会に改めて記すつもりです。
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多くのデイケア(と従事者)は、この“終わり”の問題に無頓着なのではないでしょうか。けれども、終わりのないデイケアであっても(だからこそ)、“終わり”の問題を治療的に取り上げてゆく必要があります。
ではどうしたらいいのか。一つは、デイケアでの日々の中に、安全な形でさりげなく、いろいろな“終わり”をしのばせておくことです。キャンプや文化祭(などの、期間限定のプログラム)を行うとか、プログラムの担当者を定期的に入れ替える、などの工夫が考えられます。安全な“終わり”を何度も経験することで、健康的な構えを身につけていただく、という感じでしょうか。
“終わり”の時に、いわゆる「クールダウン」を丁寧に行うことも大切です。祭の熱狂が終わり、日常生活に戻る間に「後夜祭」が行われる、というイメージです。
もう一つは、“終わる”ことを話題にし続ける、ということです。終わりを語ることは寂しいもの辛いもので、ついそこから目を逸らしたくなるのですが、その誘惑にスタッフが惑わされないことが大切です。
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「酔っ払い運転で死んでしまい、天国(酒は旨いし姐ちゃんは綺麗だという、文字通りの天国)に行った男が、神様に酒をやめるよう言われ続け、挙句の果てに地上に追放されてしまう」という歌(帰ってきたヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダーズ)がありました。浦島太郎と、このヨッパライと、どちらの“終わり方”がいいのでしょう。まあ、どっちもどっちかな。“終わらない夢”も“終わってしまう現実”も、外傷的でない形で経験できるよう、患者様に対して計らうことが、治療者には求められるのでしょう。
ちなみに、フォークルのメンバーだった北山修は、のちに精神科医となり、日本の精神分析界の重鎮となられています(有名な話)。
ちょっと長くなりました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
(おわり)