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エゴ解体

グループとしての質問: 本日、我々は、”他者らとの協調”という考えと、”非協調性”(自身の真の道を貫く事)という二つの考えらについてを議論したいと思います。 その様な中、ラーから既に行われている発言として、熟達者とは、自らを思念という拘束から解き放った存在であり、他者らの考えらやしがらみ、繋がりから解き放った存在であるとの事でした。 またクオからの発言としても、スピリチュアルな道とは、一人からなる所の、非常に孤独な、個人的な道であるとの事であります。 ただ、そうは言いましても、我々が他者らに対して有効に奉仕する事が可能となる為には、我々とは、他者らを適切に理解してそこに適切な関係を有する事もが必用とされて参り、また彼らから我々に対しても、同様の理解が存在する事もが必要とされて参る様にも思います。 ですから本日、貴方からは、この他者らへの奉仕というスピリチュアルな道において存在する所の、この他者らとの協調と、自己の道を貫く非協調という(一見相反する)二つの状態ら、これ等の間に存在する所の力的関係性についてお話して頂けるでしょうか。

(ジム氏がチャネルを行う)

私はクオであり、全一の創造主の愛と光の下、あなた方のそれぞれに対してご挨拶申し上げたいと思います。 

(中略)

その様な中、本午後、あなた方は、我々に対して最も興味深い御質問の一つを為される事となり、このあらゆるパラドックスが含まれた所の協調性と非協調性という二つのあり方について御質問をされる事となりました。 そして貴方が仰られた様に、真実の探求者が、自らのあらゆる経験らを通じて自身の経路を更に先へと進んで行かれるに従って、或る時、この探求者とは、自らが一見した所、自ら属する文化からは遥かに離れてしまっている事に気付く事となり、自己とは、その属する文化から完全に分け隔てられてしまっているかの様に感ずる事となるでありましょう。 というのも、自身の旅路、その内面に存在する旅路とは、他とは異なるユニークなものであるからであります。 よって、このユニークな旅路とは、貴方に対しては、その文化的環境の中に入り浸り、夢中になり、はまり込んでいる所の自己の心部分に従うのではなく、そのハートからやって来る所の衝動に従う事を求め、その直感に従う事を求める事となって参ります。 ですから、この真実の探求者に対して、この文化的環境と密接に関係した所のメンタル・レベル上に留まる事を求める事とは、自己をその魂の旅路の中でより先へと駆り立てる衝動、その更に内面へと駆り立てる所の内面の衝動、此れを否定する事を要求するのと同じ事となって参るという事であります。 この様にして、この様な真実の探求者の一人が、自身の周囲の世界を見渡し、また自身が生まれ育った所の文化を観察した場合、この者の目からは、そこには、この魂の旅路とは全く関係無いかの様に見受けられる所の多くの事柄が存在している様に見受けられる事となるでありましょう。 よって、助けを必用としている者であれば、如何なる者に対してでも奉仕を行いたいという意欲からなる者達とは、しばしば、この文化内に住する他者らに対する奉仕を如何に進めて行くかという点と、しかして、如何に”自己の内面の真の声”に対して従って行くかという点との間で混乱を来たし、当惑を経験する事となるという事であります。

この時点において我々は、当コンタクトをスティーブと呼ばれる存在へと移したいと思います。 我々は、クオと呼ばれる存在であります。

(スティーブ氏がチャネルを行う)

私はクオであります。 そして、我々はこの媒介者と共におります。 その様な中、この上で申し上げました所の”自己の内面の声”が実際には何であるかにつきましては、貴方には一つの簡単な問いについてを考えて頂きたいと思い…、ただ、”一つの”簡単な質問と申し上げましたが、そこからは幾つかの答えらが引き出される事が可能である所の御質問についてを考えて頂きたいと思います。 そしてその質問とは、”ほんとうの貴方とは、一体何者なのでしょうか?”、というものであります。 その後、この問いが考え始められるならば、すぐにお分かりになると思いますが、その様な質問の一つに答えようとされると、即座に、あらゆる者達とは、この質問が”非常な深さ”を有している為に、当惑状態の中に置かれる事となるのに気付かれた事でありましょう。 というのも、あらゆる者達とは、この自己が何者であるかという問いに対しては、その生命経験を辿る中で獲得されて来つつ、その答えを与えてくれると思われる所のものとしては、有り余るほどの意味付けらをすでに有しているからであります。 その例えとして、貴方は、自らが属する民族が如何なるものであるかを自認され、これを良くご存知でありますし、貴方が受けてこられた宗教的慣習についても良くご存知でありますし、そして何よりも、貴方の有する正誤という考え方を教え込んだ所の自らの社会・文化についても、すでに非常に多くの事をご存知であります。 この様に、貴方とは、貴方が如何なる存在であるかという問いに対しては、それに答えるものとしては、その民族・宗教・文化からすでに非常に多くの考え方と見方を受け取っているという事であります。 また更には、貴方がより良い自己となる事を志された際、また貴方の周囲で貴方が愛する事となった者達、貴方が尊敬する事となった者達、そしてそこに奉仕が求められる中で、貴方がそれを行う事の必要性を感ずる事となった所の者達、彼らとの間で、この貴方というものの有する長所・豊かさを共有されようとした場合、貴方が如何なる方向を辿るべきかに関して、貴方は、この民族・宗教・文化から非常に多くの、その最初の指針を受け取る事となっているという事であります。 そして、これら全ての要素らが合わせられる事によって、非常に巧妙に織り合わされた所の、”自己という布地”が作り出されているという事であります。 そしてその後、貴方の生命が何年にも亘り行われてゆく過程の中で、貴方とは、この生地を信頼して頼る事となり、此れが非常に有用かつ心地の良い外套であるかの様にして、此れを常に身にまとう事を学習する事となった、という事であります。

しかしながら、あなた方とは現在、この探究活動の中で、単なる体の探求モードもしくは心の探求モードからでは無い所の、より深い、”スピリット・霊からなる所の探求モード”へとますます進まれて行く事となりました。 その様な中、貴方が、この様式へとより進まれて行くに従って、我々からのご示唆として、自ら進んで自身の為にそれを織り、形作る事に参加していた所の、上の様々な特色からなる快適なコートとは、次第に体に合わなくなって参り、その肘の部分にはいわば”くたびれ”が見られる様になり始め、その袖には磨り減りが確認され、最終的には、自身はこうであると自認されていた所の自己が、自身の目にも、もはやそれを身に着け続けて行く事が不可能となってしまった事が明らかとなって参る、という事であります。 そして我々からあなた方へのご示唆として、この様な具体的経験とは、非常に骨の折れる大変な経験である、という事であります。 というのも、実際の所、この経験こそが、貴方が今後有するであろう経験らの中では、最も困難な経験となる事が予想されるからであります。 というのも、この”自己は誰であるか”という質問に対して、貴方が長らく適切かつ正しい解答であるとして受け容れ続けて来た所のこの”自己意識”というもの、これを脱ぎ捨てるという過程を経る事以上に、困難な過程というものは存在していないからであります。

その様な中、此処で貴方には、暫くの間我々と共に一歩引き下がり、この”自己意識”というものが何であるかについて考えて見て頂きたいと思います。 というのも、我々からのご示唆として、この自己意識とは、実際の所、この真の自己とは全く関連の無い多くの構成要素らから成り立っているからであります。 そしてそれら構成要素のほとんどとは、貴方の環境内の何れかの場所から引き入れられたものであり、いわば、まるで陰影の様に意識されずに貴方を取り囲む社会エネルギーからなる複合体、そこから取り込まれたものであり、貴方が成長する中で参加する事となった所の自らの社会のから取り込まれたものであるからであります。 また更にこの構成要素とは、貴方がこの社会の中で自らの立場・居場所を見つけて此れを受け入れる間に取り入れたものであり、貴方がこの社会の中で如何なる者となる事が可能であるか、また如何に他者らに奉仕可能であるかという点において、自らの意欲・希望を装い、形付け、規制付けて行くという模索過程の中で、取り込んで来た所のものであるからであります。

この様でありますから、貴方がスピリチュアルな探求の経路を辿る中で学びを進め、貴方がそれまで中心的重要性を有する事柄であるとして取り入れて来た所の総てのものが、もはやそのまま続けて行く可能では無い事が分かる瞬間とは、非常に困難な瞬間の一つとなる事が予想される事となる、という事であります。 というのも、それまでのこの自己意識とは、貴方が新たにそうなりたいと望む対象へと向けては、もはやその助けとなってはくれないからです。 よって、この様な段階に至る事とは、もはや体に合わない外套を脱ぎ捨てる様に、この自己意識を脱ぎ捨てなければならない事を意味する事となるのであり、窮屈となってしまった皮を脱ぎ捨てる事、もしくはより具体的にお話しする事が許されるならば、それまでは自らが進んでますます生み出していた所の”エゴ”を、もはや自己に取っては制限的すぎるものとして脱ぎ捨てる事を意味する事となる、という事であります。

その様な中、このエゴとは、あなた方もご存知の様に、主に二つの要素らの組み合わせによって成り立っております。 その中で一つ目の要素とは、貴方が生み落とされた環境の中、そこで他者らのパーソナリティから発せられる所の表現・提示物、此れを受容して可能な限り真似るという、生得的働きの事であります。 そこにおいて貴方とは、貴方の両親を真似る事となるかもしれず、貴方の兄弟姉妹の振る舞いを真似る事となるかもしれず、もしくは、貴方の仲間ら、貴方の先生ら、もしくはその文化の中でよく知られた著名な人物の振る舞いを真似る事となります。 それら真似るという行動パターンの全てが、未だ可能性でしかなかった貴方の経験、これを加工して、明るみの下、投影状態の中の置く為のものとして利用可能となっており、此れが、貴方の文化が貴方に対して有する影響の一部分として、貴方からは生まれながらに利用可能となっているという事であります。

その様な中、現在、あなた方とは、自らが本当に経験しなければならない所のものを益々経験し始められている為に、この真の自己を表現したペルソナとしては、上で最初に申し上げた所の両親から与えられた最初のペルソナが、その経験の開始時から既に自己に符合しないものとなっており、更には次の、仲間らから与えられたペルソナもが符合せず、そして更に次の著名人から借り受けた所のペルソナもが、選択可能なものとしては自らには全く符合しない事が明らかとなっております。 また更に貴方とは、その学びを更に深めて真のペルソナを発見されて行くに連れて、それらペルソナがますます自身に合わないものである事を発見されて行く事となり、実に、貴方が世界に対して発信する事が可能な自己イメージとしては、貴方が現在学ばれている所の”真の自己意識”と比較された場合、それらが、非常に歪曲された自己イメージである事を発見される事となるでありましょう。

こうして、それら当初から利用可能かつ選択可能なペルソナが、貴方が本来そうあるべき所の真のペルソナと符合しない事が学ばれる頃には、貴方からはすでに、それらが、本当の自己というものを害する所の”侵害対象”であると認識される事となっており、それら侵害作用から自己を守るすべについてが十分に学ばれている事となってしまいます。 また同胞方、それら侵害対象らの発する影響とは、事実、非常に強力に感じられる事となっているでありましょう。 そして、それら侵害対象とは、貴方の社会においては、事あるごとに、貴方の行動に対して価値判断・裁きを下す働きを行う事となるという事であります。 よって、もし貴方が、仮にも社会から期待されている生き方を実現出来ない場合、貴方とは、この価値判断・裁きの力を感じる事となるという事であります。 この様にして、貴方とは、幼少の頃から既に、一社会の中で生きる事とは、危険と隣り合わせのものである事を学習する事となります。 このちっぽけな自分とは、おお、なんとはかなくて壊れやすく、一方であなた方の文化的経験の中には次から次へと遣って来る所の価値判断・裁きの働きが待ち構えており、それらとは、おお、無数の鋭利な刃として経験される事となるでありましょうか。 よって、貴方とは、この様な環境の中では、いわゆる”厚い面の皮”を形成する事を学んで行く事となるという事であります。 そして我々のお話している所のこの皮とは、他を跳ね返す”反作用・耐性”の一つとして生み出される事となるという事であります。 そしてこの反作用とは、非常に自己の根深くに浸透してしまっている為に、貴方が選択可能な中で自身に帯びている所の、自己肯定からなるパーソナリティ、その投影体との間で、深く織り合わされた状態とされる事となってしまっているという事であります。

この様にして、これ等エゴの二つの側面、この肯定的な側面と、排他的な側面とが一つに合わされて、パーソナリティという殻が形成されているという事であります。 そして、この殻とは、その存在に対しては、その外側へと自己を表現・投影するという形の中で他と交流するという力を与え、肯定的に他と交流するという力を与えるのでありますが、それと同時に、しかして、もし我々がかの有名な詩の一節を引用させて頂くならば、”怒涛の運命の中で矢弾から自己を守る”という排他的(攻撃的)力をもあわせ持ったものとなって参る、という事であります。

以上の様にして、この”自己”というものの一つが生み出される事となるのであり、よってあらゆるこの自己とは、自身によって生み出されて構成された所の、複数の部分からなるユニット存在であるという事であります。 この様にして、そこにはこの自己という、非常に保護が与えられつつも、自己表現という可能性もが与えられた所の対象の一つが発生する事となるという事であります。 ただ、厳密に申し上げるならば、それら自己とは、如何なるものも、本当の貴方自身に属するものでは無いという事であります。 そして、貴方とは、その様にして構成された所のパーソナリティの殻の中で、一生涯をかろうじて這って行かれる事となるのであり、貴方がスピリチュアルな探求の中で一地点に達し、このパーソナリティの殻を解体させるという過程を通過しなければこれ以上はやっていけないという事が明白となり始める段階まで、その様な状態が続けられる事となるという事であります。

ただ、我々から貴方に御示唆可能な点として、この様な、それぞれの生命の中で、更に先へと進む為にはこのパーソナリティの殻の解体が必用とされて参るという事態とは、スピリチュアルな探求の道では、自然な過程部分の一つであるという事であります。 そしてこの様な過程とは、あなた方よりも先に同様の過程を通過した所の先達からは既に十分に認識がされておりますので、この過程に対しては、既に名前の一つが与えられており…、実際のところ、一つどころか多くの名前が既に与えられております。 その様な中、この過程とは、”魂の闇夜”と呼ばれる事もあり、”エゴの死”と呼ばれる事もあり、”奈落を通過する事”とも、そして”ラビリンスを横切る事”とも呼ばれる事があります。 ただ、貴方がそのどれを選択して呼ばれるのであれ、この過程とは、常に困難と焦燥の原因として経験される事となるという事であります。 というのも、そこではこのパーソナリティの殻がそれまで提供していた所の全ての側面が、犠牲とされねばならなくなって参るからです。 そこにおいて貴方とは、自らがそれまで有していたと考えていた所の全てのものを失う事となります。 貴方は、この奈落を横切る際には、それが自分であると考えていた所の全てのいわゆる試金石…、本当にありとあらゆる全ての試金石を、或る一つの自己を残して、全て失う事となります。 そしてこの残された唯一の自己こそが、この奈落を成功裏に横切る為の鍵となって参ります。 そして、この魂の闇夜の中で貴方が唯一残している所の試金石が何であるかといえば、これが貴方の”固い決意”だけであるという事であり…、貴方の生命経験がまっすぐ先へと進んで行くべく、貴方が自ら設定した所の”当初の意図”、これかなる所の固い決心だけであります。 もしこの奈落が、この固い決心以外の方法で足を踏み入れられた場合、そこには狂気の内へと落ち込んで行く機会のみが存在する事となって参り、自己統合の感覚の全てを失う機会のみが存在する事となって参るでありましょう。 その様でありながら、もし貴方が、いわば、その骨の髄に至る程に育んで来た所の自己のパーソナリティ、その全ての要素らを犠牲にされてでもこの奈落を横切ろうとされるのであれば、その間も、貴方は、自己を持ちこたえさせる為の何らかのものを、そこに留めておかねばならなくなって参ります。 そしてこの留められたものこそが、いわば、”自己の意思を明確に設定する事”によってのみ形成される事が可能な、この固い決意なのであり、更には、貴方が何の為にその様な立場を持ち堪えようとしているのか”という点において、”如何に強い決心を有しているか”という事だけとなって参る、という事であります。

その様な中、我々の信ずる所では、当会内におられる全ての者達が既に此れをご存知であると思いますが…、貴方にとってのこのエゴを作り上げるているものが何であるかと申し上げるならば、此れが、貴方にその決定権が許されている所の”選択行為”であるという事であります。 この選択行為こそが、貴方の構築された自己となり、自身のみの為に、持てる全ての力が私用されて費やされる状態を生み出す事となるという事です。 ただ貴方の周囲には、この選択が本当に貴方自身によって為されたものであるかどうかといった事を問う者がいるかもしれませんが、他がそれに対して如何なる意見を述べようともそれは問題とされないものであります。 というのも、貴方の信念によって生み出されたこの力とは、その外側と関係するものではなく、その内側からやって来るものであるからであります。 その様な中、もし貴方のこの選択が、他自己らに対して更に奉仕し、創造世界全体に対して奉仕し、そしてこの事を通じて創造主に対して奉仕する事であり、その事を目的としてこの幻の自己を解体させるという事である場合、その後、結果的に貴方とは、あなた自身が、霊・スピリットからなる所の最も繊細なフィラメントであるかの様な状態を経験し始める事となるでありましょう。 そして、このフィラメントとは、自身が僅かな風のそよぎによっても吹き消されてしまいそうなものであり、非常にはかない存在と見受けられ、あなたの生命経験という大嵐の中を遣り過ごす事はほとんど考えられない様に思われるかもしれません。 そして貴方が上の御質問を思い出して頂けるならば、この様な儚い状態の中、貴方の元に留められていて頼る事の可能な唯一のものとは、上で申し上げた”強い信念”だけであり、貴方の生命の存在する全意味とは、他者らに奉仕する事だけであるという”強い決心”だけとなって参るという事であります。

ただそうは申し挙げましても、何よりも先ず、この様な奈落の底を覗き込むという様な立場へと至る所の者とは、ほとんど存在していないという事であります。 また更には、この深遠を横切って向こう岸へと至るものとは、更に稀にしか存在していないという事であります。 ただそうでありながらも、この奈落とは、より深遠を探求する者達であれば、それに向き合わねばならない所の、そこに立ちはだかりつつ必用とされている経路の一つなのであるという事であります。 更には、今だこの様な事態に向き合っていない者達に対しても、この奈落が道の先に待ち伏せているという暗示が感じ取られる場合があり、そしてこの暗示とは、それ自体が、非常に恐ろしいものとして感じられる事となります。 よって、此れを感じ取った探求者とは、この探求から生ずる熱狂の中で揺れ動き、後ろへと引き戻ってしまう事となり、結果的に、それまでの馴染みのある物事が取り巻いている所の居心地のよい場所へと戻ってしまうという事態もが生み出される事となります。 ただ、我々は、その様にして道を引き返す必用があると考えるに至った者達を非難する意図は毛頭なく…、というのも、時に、一者の持てる力を貯めて、自身の足でこの奈落を横切らせるための”ばね・跳躍”の弾みを得る為にも、一旦後ろに引き下がる方がより知恵のある選択である場合もあるからであります。 というのも、誰も、この奈落を横切るという経験においては、自分一人で此れを飛び越えるという以外では他に方法が無いからであります。

その後、この様にして、この奈落を横切り切った後には、その存在に対しては、”私は、この様にかけ離れた存在となってしまった今、如何に他者らに対して奉仕を行う事が可能であるだろうか”という質問が、今一度、浮かんで来る事となります。 というのも、この旅路を共に続けてきた所の”私”とは、もはや他とは全く異なったものとなってしまっており、それが肯定的なあり方であれ、ネガティブなあり方であれ、自らを長らく意味付けていた所の社会複合体を跳ね除けてしまった為に、自身がこの複合体の一部だとはもはや感ずる事が出来ないからであります。 その様にして、もし貴方が、この社会複合体、その内部の無限に存在する多様な特色らに対して肯定感をも感じず、もしくは反感情をも感じなくなった際には、貴方とは、貴方がそれをより所とし、そこから力・情報を引き出す事の可能な対象としては”自身の霊・スピリット”のみがその役割を果たすものとなって参る、という事であります。 この様に”のみ”と申し上げたのは、ここにおいてそのパラドックスが最も大きなものとなるからであります。 というのも実際の所、この霊・スピリットとは、(その社会複合体と比較された場合、決して小さな頼り所であるどころか)、貴方がこれまで考えてもみなかった程の、より多くの力の源・情報源を有している対象である事が次第に明らかとなって参るからであります。 そしてこの力の源とは、強いる事無しに自然と引き出される事が可能であり、これが表現される事が可能となっているからであります。 それら力とは、開かれた心が花の様に自然と咲き乱れるかのごとくに、ただそうなる事を許容すれば良いだけであるという事です。 それら力は、人目を引く様なものである必要は無いという事であります。 そしてこの例えと同様に、実際の所、しばしば、貴方にとって可能な最大の奉仕とは、他者らがほとんど気付かない様な形で遣って来る場合があるという事です。 そこにもはや”貴方”というものが存在せず、その痕跡を残しておく必要が無い場合、そこに、貴方がこの奉仕をやりましたという印を残しておく必要は無いという事です。 貴方とは、秋のそよ風の様に人目を引く事も可能ですが、更には、一度も演奏された事の無いシンフォニーの様に、静寂の中に控えている事も可能であるという事です。

ですから、実に、貴方がこの種の霊・スピリットからなる奉仕の為にその心を開かれた場合、貴方は多くのフィードバック・見返りを得る事はないであろうという事です。 貴方は、自身の行った奉仕が結果的に良き為のものであったか、悪しき為のものであったかを知る事は無く、そしてほとんどの場合、貴方がそれに対して奉仕を望んでいる所の者とは、貴方が行った所の奉仕に気付く事さえ無いであろうという事です。 ただ、同胞方、これだけは覚えていて頂きたい点として、貴方が貴方に可能な最も深い形の中で、心を開いて奉仕を行った場合、それが無駄となるという事は決してないのであるという事です。 というのも、その印・マークを有していないかの様に見られる所の奉仕とは、それでも、その霊・スピリットの中では、ホームへとつながる道を違う事無く見つけて、そこへと寄与して行く事となるからです。

そうであります、熟達者の道とは、精神の探求者の道とは、この様に骨の折れる道なのであるという事です。 そして貴方がそれを感じようさえするならば、此れを理解されると思いますが、貴方が実際に提供しなければなら無い所のものとは、貴方の周囲の社会にはその有り場が存在していないという事です。 この様に困難な道でありながら、ただともかくも、貴方が真に周囲に提供しなければならないのは、正しい考え方に関する事、正しい情報、適切な展望なのではなく、むしろ単純に、心を開いて愛を提供する事なのである事…、これを進んで理解して下さっている間は、貴方が道を違える事は無いという事です。


以上転載です。L/L Research Transcripts Saturday Meditation December 2, 2017 の最初の質問と返答を翻訳されたものです。

原文↓

https://llresearch.org/transcripts/issues/2017/2017_1202.aspx

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