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死について考える

2025年1月29日深夜。
6年間共に生活をしてきた、ちいさな白うさぎが生きるのをやめた。
冬将軍が猛威を振るう、寒い寒い夜だった。

翌日の1月30日。
昨日までの荒天とはうってかわって、青空と日差しが綺麗な日だった。
生死を分つ、1日が終わった。

頭痛がする程泣いた。
一体この止めどなく流れ続ける水は身体のどこから湧き続けているのか。不思議な気持ちになった。

小さな白うさぎの華奢で柔らかな身体は、熱を失い徐々に強張り、生命から物体へと変化していった。
ただその姿は生前と変わる事なく、美しくて尊かった。

繰り返し繰り返し、死について考えた。
死とは一体何なのか。

これまでに見送ってきたちいさな命たちが身をもって示してくれたのは、いのちが尽きる瞬間まで『生きる』『生き抜く』という事ただ一つだ。死とは生き抜いた先のゴールのようなものなのだろうか。

死は非日常ではない。
この日常の延長線上に必ず待ち構えていて、生けとし生けるもの全てが経験する宿命を持っている。誕生と死は、一つの棒の端と端で一対なのだ。

死は安らかなのだろうか。
肉体の苦しみから解放される瞬間が安らかなものであって欲しい。いつもそう願いながらちいさないのち達を見送ってきた。

勇敢に生き抜いた先に、身体は物体となる。
呼吸を止め、鼓動が止まり、静寂に包まれる。
やりきれない思いと悲しみと寂しさが込み上げ、心が壊れそうになる瞬間だ。

だけど同時に、苦しみから解放された姿を見届け、安堵する自分も居る。思い出や悲しみがぐちゃぐちゃに交錯し、感情が溢れて止まらなくなる。泣く事で受け入れ難い現実を少しずつ受け止め、自分自身を癒す。カタルシスだ。

尽きたいのちは無に還るのか、それとも『魂』という存在になり、永遠の旅をしているのだろうか。自分が経験してみる以外には、真実は誰にも分からない。

随分前に、夢を見た。
わたしは白髪の老婆で、白い光が降り注ぐ教会のような建物の中にいた。とても安らかで心地よくて、温かで優しい空気感だった。

そこで天からの声が降り注ぎ、『よく生きましたね、お疲れ様』のような事を伝えられた。あれは未来の自分の死に際なのだろうか。目覚めると、無意識に涙がとめどなく流れていて驚いた。変なリアリティが身体の中に感覚として残っていた。

旅立ったちいさな白うさぎが、あの時わたしが夢で感じたような穏やかで優しい空気に包まれていてくれますように。苦しみから解放されて、安らかにいてくれますように。

無宗教のわたしだが、そう願わずにはいられない。
どうか、ちいさないのちに永遠の安らぎを。

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