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ライラック短歌🌸審査員rira賞

ライラック杯・短歌部門にたくさんのご参加ありがとうございました。

審査員という形を取っていますが、私たちは良し悪しを決めているわけではありません。どの短歌にも作られた方の気持ちが込められており、どれひとつとして同じ歌などない、それぞれの素晴らしい魅力をしっかりと噛み締めて読ませて頂きました。


私らしい、私になる。

そのままの自分を見つけることが、
「私らしさ」ではないでしょうか。
それでは、私好みの短歌を12首発表させて頂きます。



※賞状内は敬称略させて頂いてます。

👑 第一位 👑

春の午後からだのなかに雨が降る
青い吐息をのみほしてゆく

ゼロの紙さん

春って不思議。光あれば陰があり、出会いがあれば別れがある。相反するにも関わらず、どっちに転んでもスッと前に進んでいく。花びらだって春風だって背中を押してくれる。だけど、足踏みしてる時はどうする?

溜め込んで溜め込んで、パワーにしていく。そんな時間も必要なものなんだ、と思わせてくれる。雨の日は、立ち止まっててもいいって神様に約束されているかのよう。そして、清濁すべて呑み込んで体の中でぎゅって溶かしてしまうかのように。私がどこにいるのか見つからない、だけどそんな私も「私」なんだよ、と。

青は癒し、安らぎのカラー。春の雨は優しくて、温かい。静かに、静かに私を見つめるその目に映るものはすべて青に包まれていき、青の世界に溶け込んで、ようやく吐息となり呼吸をすることができる。ゼロさんの言葉の世界から、たくさんの言葉が生まれてきて止まらない、足の指先まで安らぎが沁みこんでいくかのようでした。



👑 第ニ位 👑

空高く風に揺蕩う花びらが
はじめてふれる柔らかなつち

Momocoさん

花が散るということは、命を終えるということ。しかし終わる命があれば芽吹く命がある。春は、生と死が混濁する季節。

花は本来散ることで終わるけど、この歌ではそれが新たな旅立ちのように軽やかに風に乗っていく。生まれてから何者にも触れていなかったその花びらが、地面に落ちて初めて触れるもの、それが土なのだ。

水分や栄養をたっぷり含んだ、やわらかい春の土。それに優しく触れる感触は、ふんわりとして、くすぐったくて、まるで初めて恋人にそっと触れるかのような瞬間で。たくさんのひらがなが優しく受け入れてくれるかのよう。花びらの命は、落ちても終わらない。やがて萎れて土に溶けたとしても、また次の新たな命の源となる。そんな生と死の循環もあるべきものとして受け入れる包容力を感じました。




👑 第三位 👑

春の夜の月の欠けてまた満ちる
だれかがひとつしあわせになる

につきさん

春の月といえば朧月。秋の月はくっきりと美しく切なさを感じるが、春はふんわりと滲むように、温かくてどこかほっとする優しさを感じる。

満月は文字通り「満たさせている月」と書く。何が満たされていくのか?私は月を見上げると、心の中にふわっと安心感が満たされていくように感じる。月にはセロトニンを分泌させる効果があり、幸福感が増すらしい。

ふと見上げた月がまんまるで、今この瞬間、世界の誰かが幸せになったのだと考えること。月を通して繋がった誰かの幸せが、夜の世界に満ちていく感覚が広がり、そうして自分の心も満たされていく。

こちらの歌は「森のスイーツ屋さん」のぽんでも使わせて頂いたのだけど、裏設定で「メロンパンはお月さまの欠片で、食べた猫がメロンパン一つ分幸せになった」のだとしました。なので食べた後のお月さまはちょっと欠けてるんです。

お月さまがこうやってどこかの誰かをこうやって幸せにしてるんだと思うだけで、なんだか優しい気持ちになれますね。




👑 第四位 👑

あきらめた恋を数えて夜桜が
はらりと落ちて地球は無音

島風ひゅーがさん

あきらめてしまった、もう手の届かない恋はどこにも行き場がない。あの恋も、この恋も上手くいかなかった、そんなきゅっと胸が締め付けられる思い出も。私の心の置き所はもう夜桜のとなりしかなくて。帰ろうにも帰れない生温い春の夜、音もなく花びらがはらりと落ちていく。

花びらがまるで自分の恋心の化身であるかのように、誰もいない夜の公園でスローモーションのように舞い落ちていく。音もなく花びらが地上に着地し、儚く散った恋と涙を乗せながら、それはもう終わってしまったのだと自身の目で確かめて分かっていても、切ない気持ちをぎゅっと握りしめたまま動けないのだ。

そして花びらから、地球という大きな視野に移っていく。さっきまで聞こえていた街の喧騒も誰かの足音も、まるで地球全体の音が消えてしまったかのように、地球全体に哀しみが滲んでいくような、とても深い余韻を感じる情景が美しく響きました。




👑 第五位 👑

めくりたくなる薄皮がありまして
しおらしくなる春のかさぶた

砂の三郎さん

かさぶたってかゆいし気になるし、剥かない方がいいに決まってるけど、あるとやっぱり剥きたくなります。少し気候が暖かくなり、また汗ばむ時期にもなるとよりかゆさが増してくる。

少しかしこまって(´ρ`*)コホンコホンと咳払いするかのような、ちょっとおちゃめな感じのする「ありまして」。「もうかゆいし、いい加減むいちゃおうかな🎵」と言う作者、するとかさぶたは急に「しおらしくなる」わけです。

すると、それまでかゆがらせたりイタズラしてたかさぶたが、いざ剥かれようとすると「えっ、待って、剥いちゃうの…(´・ω・`)シュン」となる。この可愛さがたまらない。こう考えると、本来なら早く消えてほしいかさぶたも、なんだかちょっと楽しくなってきちゃいますね。

軽やかな言葉運びと擬人化で、日常のふとしたこともこんなふうに歌にしたら輝いて見える。変わらない日々もちょっと視点を変えれば楽しくなるんだよ、と教えてくれるかのようでした。




👑 第六位 👑

朝露に濡れるつま先花びらの
足りない花が一日を生く

林白果さん

雨上がりの朝はどこまでも澄んだ青空が広がり、水溜まりには空が映り、草花には雨露が光っている。その様子をつま先に露が落ちるほど間近で見ている視点、しかしその花びらは虫に食べられたのか、ちぎられたのか、数枚なくなっている。

朝露に反射してキラキラした葉や花ではなく、花びらがいくつかないことが焦点になっているこの歌。記事を読むとわかるけど、「草生け」といって身近に生えている草花を生ける手法を基としている。自然のありのままの植物の姿こそ美しいという生け方だ。

欠けてる花びら、虫に喰われた葉っぱ、折れた茎。そんなことに植物たちは嘆いたりしない。彼らは凛としてそこに生き、生を全うしようとしている。そんな草たちが1日1日を懸命に生きている姿に、勇気をもらえたりする。

人間だって同じで、欠けてるものや足りないものがあるのは当たり前。どうしようもないものを嘆いたり卑屈になるよりも、ありのままな姿を受け入れた時こそ美しく輝くもの。キャッチフレーズ「私らしい、私になる」にも通じるように思えました。






7位以下は順不同です。

人の群れ抜け飛び乗ったおんぼろは
僕にピッタリ鈍行列車

ふぅ。さん

たくさんの人の中にいると、息が切れてしまうことがある。人混みってなんだか苦手。比べたり、比べられたり。言葉ではニコニコしてても腹の中真っ黒だったり、そういうのってわかるし、くたくたに疲れて泣きそうになってしまう。

そんな人間たちの群れから離れて飛び乗る電車は、オンボロだって構わない。自分のペースでゆっくりと、だけど着実に進んでいく鈍行列車はきっとふぅちゃん自身なのだろう。

快速はなかなか止まらないけど、鈍行はどの駅にだって止まることができる。思うままに止まった駅で出会ったひとつひとつを宝物のように大切にしていけばいいし、スピードなんてそれこそたいして意味をなさない。日常を離れてふと鈍行列車で旅に出たくなるような、旅情を感じる短歌でした。





言葉には表せずともあたたかい
気持ちになるのが愛なのかも

美味しい蒸しエビさん

恋は欲するもの、愛は与えるもの。好きな相手に同じだけ好きを返して欲しい、認めて欲しい、私だけを見ていて欲しい。恋などそんなものだけど、それは自分の欲であり自己愛に過ぎない。若かった頃には私も失敗したこともあるけど、愛とは相手のためを思うことなのだと今はわかる。

はっきりと言葉に表さなくても温かさを感じられるとしたら、それはいつも身近にいて素振りや言葉の端で伝わってくるほどの近い距離。家族であったり、友人だったり、恋人だったり。

このnoteでさえ、「ありがとう」の言葉ひとつ取ってもそれが事務的に発せられたのか、本当にその気持ちがあるのか、結構わかるものだ。そこに思う気持ちがあれば、細やかに言葉を尽くさなくても本物の気持ちが相手に伝わるもの。

それを恋愛に限らずひっくるめて「愛」と感じることができたら、そうしてお互いを大事にすることができたのなら、この世界に争いごとがもっと減るのにな、と思わずにいられない、温かな心を感じました。





あなたからもらった命抱きしめて
あなたのいない世界を生きる

あぷりこっとさん

命とは、と考えたとき、私たちは常に誰かに与えられて生きていることに気づく。産んでくれた母はもちろん、日頃から口にしている食べ物はすべてそこに命があった。誰かの手によって加工され食卓に並べられたたくさんの命が、体の中に入り私の命となって生を育んでいく。

私の母はまだ健在であり、私自身が子供を産んだことでようやく母の偉大さに気づけた。この先母がいなくなった世界で生きる私、そして私がいなくなった世界で生きていく子。この歌を読んで初めてその視点で考えさせられる。

「あなたからもらった命」を大切に「抱きしめて」、「あなたのいない世界」でも自分らしく前を向いて生きていくのが「生きる」ということなのだと。

母が亡くなっても私の中に母は存在しており、たとえ私が亡くなっても子の中に「私」が存在する。太古からすべてが繋がっていく命の中で、私たちは生きている。この歌にふわっと抱きしめられているかのような母のような温もり、そして強さを感じました。




前髪を切り過ぎたかと気にしつつ
鏡の前で春ショール巻く

ゆずさん

お出かけのために美容院に行って髪を切る。その時は良かったのに、帰ってきていざ鏡を見たら、「あ、やっぱり切り過ぎたかな、、」と些細なことが気になってしまうのが女心。なんでだろう、前髪って切られすぎてしまうことが多い気がします。

春の花たちに誘われる春のお出かけは、それだけワクワクして気分が上がるものだ。ふんわりとしたパステルカラーのショールを巻けば、より気分が上がる。たとえ家の中だって、春の小物を身につければそれだけでなんだか楽しくなってしまう。

一見些細な仕草に見える短歌だけど、この中にやわらかくて温かい春、ワクワクするような春がギュッと詰め込まれている。

少し話が変わるけど、私の母は、首が寒いからと年中スカーフを身につけている。顔が明るく見えるからとパステルカラーのものを選ぶことが多く、春になると薄いピンク系のスカーフを好んで身につけていた。ピンクのスカーフを付けている母は、いつもより明るく楽しそうに見えたもの。何歳になったってオシャレは楽しいものだ。

スカーフとショールはちょっと違うけど、この歌を目にした時母がピンクのスカーフを首に巻いている様子が目に浮かんだ。寒さから解放される春のお出かけは一段と待ち遠しく、ウキウキしてる母はどことなく可愛らしい。

そして、ゆずさんもきっと、同じようにワクワクしながら鏡の前でショールを巻いたのだと思うと、可愛くて微笑ましい様子に私までニンマリしてしまうのです( *´艸`)




信じられます?マトリョーシカじゃ
ありません開けても開けても不合格

限界浪人生ぴよさん

受験のこと、お察しいたします。ご家族ともに深く心痛されたことと思います。しかしそれをマトリョーシカに例えた比喩の巧みさが抜群です。

信じられます?の問いかけが暗に「こんなこと信じられないよね?」の意図を含み、違和感なく短歌にする軽やかさ。封筒を開ける度に不合格だったことの悲しみや驚きをそのまま詠むのではなく、マトリョーシカに例えることでほのかに誘う笑い。一歩引いたところから自分を見ている、つまり客観的に自分が見れているということは、もう結果を受け止められて次を見据えられているのかな、とさえ感じます。

ブラックユーモアが得意な人は頭が良い、といわれます。うまい比喩を表現できる人は、頭の中で物事をうまく整理して結びつけることが得意。この才能を発揮して、ぴよさんの進む道が輝かしい未来へ繋がることを願っています。




ふと目にす健診表の我の歳
撫でたくなりし 齢の真上

ぶどうさん

大人になるほど、年齢を紙に書く機会は少なくなる。子供の頃なら毎年数えて待ち望んでいた誕生日も、大人になり我が子が大きくなっていくにつれて、さほど重要なものではなくなっていく。「そういえば今年、正確にいくつだっけ?」と即答できず一瞬考えてしまったりすることもありがちです。


公的な書類以外で年齢を書く機会は、病院であることが多い。年に一度の健診は日頃忙しく自分のことに構っていられない人でも、自分の体のことを気に掛ける唯一の機会と言えるかもしれない。

そんな時、紙に記した自分の年齢を目にし、これだけの年を歩んできたことを急に自覚する。撫でたくなるほどの長い年月がそこにある。これまでの苦労やつらさがぶわっと湧き上がってくるほどの道を歩んできたこと。いま健診に来れている自分に、たくさん頑張ったね、と言いたくなるほど重ねた年月を、苦しかったあの時の自分も過去も全てを、ふわっと両手で抱きしめているかのような慈愛に満ちたぶどうさんのまなざしを感じます。私もいつか振り返った時、ああこんなに頑張ったんだなと思えるように年を重ねていきたいなと思いました。




🔻これからのスケジュール



🔻他の短歌審査員による発表


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