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化学が拓く新たな日本酒の扉 ~伝統と革新~


はじめに

私は大学で化学を専攻し,今もとある化学メーカーで働いています.
正確には「化学工学」が主専攻ですが,聞いたことのない方も多いと思います.
「化学工学」とは『化学の知識を基盤として化学反応を中心としたモノづくりを工業的な規模で安全かつ安定的に実現するために,化学や物理,材料工学,機械工学など多くの学問分野を統合して工場や化学プラントなどの生産プロセスをデザインする学問』…です.
例えば有機化学,無機化学,分析化学,高分子化学,生化学,物理化学…など「化学」と名がつく分野は一通り学んできました.ここでは総論的に「化学」と括って扱っていきます.

さて,「化学」と聞くと皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか?
今回は「化学」の知識を生かして日本酒を普及・発展させるために何ができるのかについて書いてみたいと思います.

1. 「化学」のこれまでとこれから

まず初めに,化学の歴史的な役割と社会の認識に焦点を当ててみましょう.
近年,化学は「化学薬品」や「環境汚染」といったネガティブなイメージと結びつけられることが多くなってきました.
特に20世紀中盤からは産業の発展に伴って有害な化学物質の使用が環境破壊や健康問題の一因とされることが多くなり「悪者」の印象が強まりました.
しかし同時に,化学は技術革新と共に時代が抱える多くの課題に対する解決策を提供してきました.
例えば食品添加物や農薬は"食"という生活の基本に直結するがゆえに「化学物質」として悪いイメージを持たれることも多いですが,食料品の品質維持や長期保存を可能とすることにより食糧の安定供給や食中毒リスクの低減を実現したり,安定した食糧生産を実現することで世界の食糧供給を支えている正の部分も非常に大きいと考えます.
環境汚染の主な原因として批判されるプラスチックは,医療機器や衣料,包装,建材など実質的に我々の生活を豊かにするために必要不可欠な素材となっています.
また,日本は世界でも極めて稀な水道水を飲用できる国ですが,病原菌や有害物質を取り除き安全な水道水を供給するために用いられる塩素系消毒剤も時に化学薬品として敬遠されがちです.
さらに,化学合成により製造される抗生物質や鎮痛剤,抗がん剤などの医薬品は多くの病気や感染症を治療・予防し,化学の発展がなければ今日の医療技術の発展や健康寿命の延伸,QOLの向上は実現できなかったでしょう.

つまり,「化学薬品」や「化学」そのものが悪いのではなく,その使い方に問題があるなど,それらを扱う側の問題が非常に大きいと考えます.
最近では再生可能エネルギーやバイオテクノロジーの利活用,リサイクル技術開発などの幅広い分野における救世主として「化学」は再評価されてきており,これまで人類の生活を発展させた一方で社会にもたらしてきた負の側面に対して,改めて化学が解決策を提案することでサステナブルな社会の発展に寄与していくことが求められていると感じています.

2. 日本酒業界に対する「化学」の貢献可能性

次に,日本酒業界に対して化学がどのように貢献できるかを考えてみたいと思います.
日本酒業界は高度経済成長期において革新的な製造・貯蔵技術を急速に開発・導入し,均一な品質の日本酒を安く大量に供給することを主眼として発展してきました.
一方で近年ではより伝統的な手法への回帰や従来と異なる特異な原料・製法などによって日本酒のさらなる可能性を追求する造り手が現れたり,料理とのペアリングや高度な管理状態での熟成など,日本酒業界の裾野はまだまだ広がっています.

伝統への回帰は科学技術との決別と捉える方もいらっしゃるかもしれませんが,それは違うと思っています.
日本酒の製造において酒母育成法を菩提酛から生酛,山廃酛,速醸酛と進化させ,醪の段仕込法を確立してきたのは,歴代の酒造技術者が「腐造」と戦い続けてきた歴史そのものですが,伝統的な手法に完全回帰することは,当時とは異なる現代の環境・気候において再び大きな「腐造」のリスクを背負うことにもなります.
しかし,科学技術は感覚や運に頼っていた醸造の制御を可能にすることから,現代には伝統的な手法というフィールドにおいてもなお「腐造」と戦うための強力武器があり,それらを全て捨てる必要はありませんよね.

つまり,伝統的な手法へ回帰するとしても,化学や科学技術と完全に決別するのではなく,むしろ科学の力を適切に活用しながら伝統と革新を融合することで,日本酒は新たなステージの扉を開くことができるのではないかと思います.

3. 日本酒と「化学」が共存する未来のために

日本酒業界に対して化学が貢献できる可能性を考えてきましたが,日本酒は古くからの日本文化と密接に結びついていることから,世間がそれを受け入れられるか,つまり最終消費者が抱く懸念を払拭しなければなりません.

例えば,より高品質で美味しい日本酒を造るために優れた香味をもたらす酵母や糖化力の高い麹菌,醸造に適した米を「最先端のゲノム編集技術を用いて遺伝子改良して作製する」とだけ聞くと,何となく抵抗を感じる方が多いのではないでしょうか.
遺伝子改良というと「遺伝子組み換え」を想像される方も多いかもしれませんが,「遺伝子組み換え」と「ゲノム編集」は明確に異なります.
また「遺伝子組み換え」はあまり好ましくないものとして捉えられることもありますが,どういうリスクがあるかを正しく理解している人はほとんどいないのではないかと思います.
遺伝子の変異自体は自然界では日常的に発生しており,また,先人達はこれまでも望ましい遺伝子を持つ品種を選抜し,分離し,交配することで様々な作物の品種改良を行い,美味しくて病気に強い品種を長い年月をかけて作り出すことで我々の食生活を豊かにしてきました.
したがって,科学技術を用いることに抵抗を感じるとすれば,「正しい情報が十分に伝わっていない」ことも大きい課題ではないかと思います.

もちろん,最新技術を使うことが常に正しいわけではありません.
技術にはそれぞれ必ずメリットとデメリットがあり,日本酒がこれまで歩んできたストーリーに反する行為は日本酒の歴史そのものに取り返しのつかない傷をつけることにもなりかねません
だからこそ,技術に関する正しい知識を持って良し悪しを適切に判断できるようにしておくことが非常に重要と考えます.
日本酒業界をサステナブルに発展させつつよりよい未来を創っていくために,原料調達から製造・流通・販売に至る幅広いサプライチェーンの中で技術を適切に活用し,消費者の理解と信頼を得ながら新たな価値を創造していくことが必要ではないでしょうか.

おわりに:自分にしかできないことは何か

日本酒業界には多様な知識や経験を活かして消費者に美味しい日本酒を届けるべく日夜努力されている方がたくさんいらっしゃいます.
私は日本酒を生業としない一個人ですので,先人の方々と同じ道を進んでも大きな価値は生み出せませんが,私が持つ「化学」というバックグラウンドを活かすことで日本酒業界に対して何らかの価値を生み出せるのではないかと思っています.
例えば,醸造技術の進歩に対する貢献だけでなく,消費者側の視点で日本酒の味わいや香りなどの特性を化学的な視点で因数分解して発信することで,よりロジカルな日本酒の楽しみ方を伝えることもできるのではないかと思います.
既に同じ志を持って活動をされている方々もいらっしゃいますが,まだまだ一般の消費者に広くリーチできているとは言いきれないところもあると思いますので,微力ながらそういった方々のお手伝いができればと考えています.

具体的に何ができるのかについては試行錯誤の段階ですが,私にしかできないことは何かを自分自身にも問いかけながら考えを昇華させていきたいと思います.

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