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現在進行形のあなたへ。



「おおきくなったらどんな人になるのかな」
「この子は何が好きなんだろう」
「顔はお父さん似だね」
「優しい子になりますように」



お母さんのお腹の中で居眠りをしていたから、予定日よりもだいぶ遅れてこのお寝坊さんが生まれたその年に、私の知らない思い出の中では、一体何人の大人達が私のまだ見ぬ輝かしい未来に思いを馳せ、どんな声をかけたのだろう。
この小さな生き物にとって、世界の全てが "ママとパパ" だけだったあの頃。
お母さんとお父さんにとっても "私" がこの世界の全てだったはずだ。
その時の事を思い出そうとすると、大きくて、暖かくて、優しい、そんな陽だまりのような感覚だけが蘇る。
目に見える景色、口にする味、感じる匂い、触れる体温、聞こえる声。
その全てが、愛以外の何ものでも無かった。



「いないいないばあ」
「むかしむかしあるところに」
「ねんねんころりよおころりよ」
「いたいのいたいのとんでいけ」



目を瞑ると、私に向けられた優しい声が遠い記憶の中でこだましている。
昔の記憶の輪郭は全てぼやけてしまっているけど、うっすらと見えるその人の表情は常に私に笑いかけているのが分かる。
その魔法のような言葉の反復に導かれ、世界が本当にその言葉の通りになった。
それは私が、その声を心の底から信じていたから。
そうなって欲しいと、強く望んだから。
よちよち歩きの言葉と私は共に成長し、一人歩きをし始めて、小さな世界は様々な声で溢れかえるようになった。



「動物が好き」
「雨の日が好き」
「絵を描くのが好き」
「人を楽しませるのが好き」



私も他の子と同じように、自分の「好き」を集めて育った。
心の中の宝箱に、一つ一つ大切に並べていくように。
沢山の「好き」の中で私が一番大切にしてきたもの。
それは、「気持ちいいことが好き」という想い。
思えば、気持ちいいという実感は、生まれた時からずっと私の傍にいてくれた。
窓から差し込む陽の光で目覚めた時、温かいご飯をお腹いっぱい食べた時、柔らかい肌に抱き寄せられた時。
そんな、心と身体が気持ちいいと感じる瞬間が何よりも好きだった。
だから私はあらゆる選択の場面において、「どちらの道を選べば気持ちよくなれるか」、常にそれだけを自分自身に問うてきた。
全ては直感のまま、その時の快楽に素直になるだけ。
ゆえにその直感はとても刹那的なものだけど、絶対に外れる事はなかった。
次第に私は、外部から投げかけられるあらゆる声よりも、自分の中の「気持ちいい」という感覚を強く信じて生きていくようになった。



「勉強が得意だから良い大学に行けるさ」
「長女だから頼りにしてるよ」
「お向かいのあの子は優秀だね」
「早く孫の顔が見たいな」



大きくなるにつれ周りの人達が好き勝手描く理想や期待も、私はあまりプレッシャーに感じた事は無かった。
それらの声をまともに受け止めようとしなかったからなのかもしれないが、それ以前に、常に私の選択は私だけの意思によるものだったから。
良くも悪くも、両親も妹弟も、喧嘩ばっかりしてた幼馴染もあの時好きだった彼も、すぐに辞めた部活も第一志望の大学も、誰も何もかもが私の人生の決断には関係が無かった。
いつだって偏見とか流行とか、そういうものとは少し離れたところで、全部自分で決めてきた。
なぜなら私には、信じられる快楽があったから。
それは、むかしむかしあるところで私が見つけた宝物。
だから私は快楽を軽視する事が出来ないし、そんな事したくない。
私は自らの意思で「気持ちいい」という事に従順かつ貪欲でありたいと願った。
それに私自身は、「気持ちいいことが好き」という事実を特別だと思った事が無かった。
「歌うのが好きだから歌手になりたい」とか、「運動が好きだからスポーツ選手になりたい」とか思うのと同じように、「気持ちいいことが好き」な私が「AV女優」になるのは自然な選択だった。
自分の中では何もおかしい事は無いと思っていた。



「意味が分からない」
「信じたくない」
「そんな事して恥ずかしくないの?」
「これ以上悲しませないで」



私の「好き」は、周りの人も自分自身も傷付けてしまう凶器のようなものだった。
傷付く事を恐れる者にとって、私は"いけない"ことが好きな"いけない"存在。
存在しては"いけない"存在。
ないものばかりを突き付けられて、自分の「好き」が打ち消されてしまいそうになる。
ないことばかりを重ねるうちに、自分の存在が本当になくなってしまいそうになる。
何が罪?これは罰?
愛されなかった訳じゃない。
悲しませる為にやった事じゃない。
でもあの日、あの昼下がり。
皆は私の誕生を心の底から喜んでくれたけど、私は皆を喜ばせる為だけに生まれてきた訳じゃない。
私の生き方は、私以外の世界の全てとは関係がないから。
だから、誰も、何もかも悪くない。



「本当に自分のしたいことは何?」
「本当に自分が輝ける場所はどこ?」
「本当の自分と出会える時はいつ?」
「本当の自分を認めてあげられるのは誰?」



もう一度、自分自身に問いただす。
心の内側の暗いところでいないいないばあってしてみたら、そこにあったのはよく知る"傷"の痛みだった。
自分を守る為に捨て去ろうとした「好き」の気持ちを、鈍い痛みが私に思い起こさせる。
その度に、誰かに奪われるよりも先に「気持ちいいことが好き」という本懐を、本当は最初から誰よりも強く感じていた自分を慰めた。
気持ちいいって素敵なこと。
それが私にとって一番大切なこと。
だから傷付いた。
好きなことを守る為に傷付いた。
私は自分の「好き」で傷付く人生を厭わなかった。
その事実に気付いたから、あの時みたいに優しい声の魔法をかける。
今度は自分で魔法をかける。
"いたいのいたいの、とんでいかないで"
私が本当に守ろうとしていたのは、かけがえのない「好き」の痛みだった。



「痛かったね」
「よく頑張ったね」
「あなたは何にでもなれるから」
「おおきくなってもそのままでいいんだよ」



誰だって、自分にしか分からない痛みを抱えて今を生きている。
だから私は、誰に対してもその人の現在を簡単に否定する事をしたくない。
なるべくなら、その人の今にただただ寄り添っていたい。
たとえば今、目の前の人が自分に納得出来ずに状況を変えたいと思っていたとしても、努力の結果全てが変わったとしても、自分の力ではどうしても変えられなかったとしても、あえて変わらないままでいる事を選択したとしても。
私の目の前にいる大切な人の今を、私はそのまま受け入れたい。
そんなあなたが素敵だと、今でもちゃんと素敵だと、現在進行形のあなたに伝えたい。
時にそれが残酷な事だとしても、私たちの存在は現在進行形の痛みだから。
それこそが、あなたと私が今此処で確かに生きているという事の証明なのだから。



「応援してるよ」
「体に気をつけてね」
「いつでも帰ってきな」
「大丈夫だよ」



私たちは沢山の声に祝福され、期待され、傷付いて、裏切られ、励まされ、見守られ、愛されて、生きていく。
這い上がれない程にくたばって地面にへばりついてしまっても、その声を信じたいと思う気持ちがあるのなら、自分の歩幅で一歩ずつ進んでいける。
あんよが上手じゃなくてもいいから、声のする方向へ進んでいける。
その裏で、誰かの声に殺されてしまったあの子の「好き」がある事を、痛みも安らぎも知らずに死んでいった無数の「好き」がある事を忘れないために。
ねんねんころりよおころりよ。
次は私が優しい子守唄を歌ってあげるんだ。
そして私は自分の「好き」を背負って生きていく。
今を生きる私から、現在進行形の自分を否定し続けた私へ、優しい声をかけて生きていく。
何度でも、繰り返し繰り返し声に出す。
私を生かしてくれた沢山の優しい声を思い出すように。




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