BABY
女の子って不思議な生き物だ。
この前、江口寿史の「彼女展」を見に行った時にそう感じた。
"彼女" という普遍的な匿名性を纏った女の子たちは皆、知らない街で偶然出逢ったみたいなのに、アパートの隣の部屋に住んでいそうでもある。
柔らかい肌の温度が今にも伝わってきそうで、でも触れたら一瞬で消えてしまう幻みたいで。
誰かのものなのだけど、まだ誰のものでもないような、とても、とても曖昧な存在。
その全てが不思議で仕方なくて、いつの間にか自分の中でかけがえのない存在になっている。
そんな”彼女”を前にすると、どうしようもなく触れたくて、絶対に守ってあげたくて、なぜだか切なくて、ひたすらに愛おしいと思う気持ちになる。
そんな私だって、誰かの"彼女"だった時があって、誰かの"彼女"になりたいのかもしれなくて。
気が付くと、キャンバスの向こうの”彼女”の瞳の奥に、自分の面影を見ていた。
私が江口寿史の描く女の子に初めて出逢ったのは、銀杏BOYZのアルバムのジャケットだった。
彼らの歌を聞く時、私は女の子に生まれて良かったと強く思う。
今の時代、「女の子だから/男の子だから」と隔てるのはダサいけど、私の中では案外重要な事だったりする。
私は自らの女性性を商売にしているけど、それらを消費されてゆく事への憤りや嫌悪を感じているわけでもなければ、何か特別なプライドや誇りを抱いているわけでもない。
私はただ、女として生まれた自分の人生に降かかる酸いも甘いも、自分の好きなやり方で謳歌しているだけ。
だからプールの授業は見学して、今日のデートは奢ってもらおう。
ヒールの靴擦れに絆創膏貼って、お茶汲みだけならお断りで。
ごはんのおかわりはするけど、苗字は変えたくない。
寒くてもミニスカート履くし、一晩のセックスで何回だってイキたい。
白馬の王子様を待ち続けたりはしないから、バイクの後ろに乗せて連れ出して。
私が私である限り、白でも黒でもない、むしろ色なんて無い、透明なところで海月みたいに漂って、女らしさの呪縛に身を任せたり、悪戯な男らしさに甘えていたい。
そんな私という曖昧な存在を、取り留めのないこの矛盾だらけの欲望を、代弁してくれるのはいつも、私ではない"誰か"に贈られた歌だ。
ほら今日も、一番大事な"誰か"を呼ぶ歌が聞こえる。
シャ乱Qが夢と "お前" を抱いた夜、OZROSAURUSが港から "俺" をレペゼン。
ayuが "者達" を導くのなら、玉置浩二は "君" を離さない。
中森明菜は誰よりも "私" を捧げたし、andymoriはいつだって "僕" の味方だ。
尾崎豊がずっと "二人" でいたように、テレサ・テンには "あなた" しかいなかった。
そんなあなた以外の"全人類"、RADWIMPSとkemuなら生贄にしちゃうのかな。
”ローラ” は傷だらけで、”エリー” は最後のlady、”サリー” は待ってくれている。
二酸化炭素を吸い込んで "あの子" が呼吸をしていた時、"僕ら" まるでエイリアンズみたいだったね。
"ベイビー"、もう泣かないで。
「BABY」
きっとこれは女の子が強くなれる言葉だ。
国境を越えて老若男女に使われる最もポピュラーな代名詞なのだから、ベイビーでもベイベーでもベビーでもいい。
いつだってその曖昧な響きが、私の心の痒いところに寄り添ってくれる。
それに、”BABY”って歌うだけで、何故だか男の子の気持ちが分かるような気がする。
正確には、知らない誰かが抱いている知らないあの子を愛おしいと想う純な気持ちが、守りたいと想う身勝手な正義が、自分の事のように伝播してきて、この世界の全てが愛おしいと感じるようになる。
別にその子は何処の誰かも知らないし、存在するのかさえ分からないのだけど、「君の笑った顔を見せて」と言いたくなる。
あの日、”彼女”に出会った時と同じ気持ちになる。
女の子だって、たまにはカッコつけたくなるものなのだ。
ねえ、だから。
今夜だけは私にも言わせてよ、"ベイビー"。
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