見出し画像

高二による夏目漱石 こころ の分析

これは私が高校二年生の時、「夏目漱石によるこころについて何か論文をかけ」という課題が出た際に、他の人は2日くらいで終わらすものを、何故か気合いが入ってしまい1ヶ月をかけて作り上げた大作です。
これ以降夏目漱石が大好きになりました。
結構いい出来だと思うのですが日の目を浴びないのは可哀想だし何よりも頑張ったこの分析を公開したい!という承認欲求?から高三の受験期に思い立って誰も見ないようなnoteにあげてますwww
ただの自己満⊂( ᴖ ̫ᴖ )⊃

先生はなぜ青年に十字架を背負わせたのか

「私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。然し恐れてはいけません。」(こころ下172P11行)
「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです」(こころ下173P11行)
これは先生の手紙の冒頭部分である。先生がここまで強い表現を用いて青年に過去を話すというのは驚くべきことだろう。なにせ先生があそこまで頑なに拒んでいた過去の話である。では、なぜ先生は、わざわざ青年の今後の人生に一生の十字架を背負わせてしまう可能性があるのに、過去を伝えるという決意をしたのか。それは、ただ単に先生が自分の罪を青年に知ってほしい、自分の孤独を分かち合ってほしい、というあまりにも自分勝手で自己満足的な理由だけじゃないはずだ。それはきっと青年の心に何かを刻みたい、という切実な思いがあるからだろう。そして私は、その何か、とは、この時代にでてきた個人主義と大いに関係があると考えた。そこでまずはこの本の著者、夏目漱石(以下漱石)の考える個人主義からみていく。
 漱石は江戸時代の最後の年に生まれ、江戸時代の考え方を持つ世代に育てられ、接しながらも、生きたのは江戸時代とは全く違う明治であった。漱石は江戸時代の考え方と明治時代の考え方両方の考え方を持っていると言える。江戸時代の考え方を端的に表すなら集団主義と義理だろう。江戸時代の五人組という制度、これは農民たちを五つの家で一つのグループとし、五つの家のうち一人でも年貢を納めないもの、逃げ出すもの、キリスト教を信仰するものがいて、それが役人に見つかった場合、五家族全員で連帯責任をもつ制度のことだ。下手をしたら、全家族打ち首ということもある。そうやって二百数十年互いを監視することで生まれて、日本人に根付いたのが集団主義、すなわち個性を持つことを悪とし、他人と同じであることを求め、波風立てないことをよしとする考え方である。残念ながら現在も残っていることは皆さんもわかるだろう。次に義理という考えはもともとは儒教から生まれたものであり、そこから御成敗式目における「道理」など、武士道の必須要素とされたものである。それが段々と17世紀末の江戸時代、特に元禄文化の近松門左衛門らの作品によって日本人の精神面に大きな役割を果たしてきた。義理とは主君への恩義、他人への社会的責任のことだ。中世の日本人にとっては義理というのは命よりも重要だった。義理を果たせるのなら命さえ惜しくない。義理を果たすことが最低限の目標であって、自分の意見や個性などはもちろん、命でさえ優先順位の低いものであった。この感覚は今の日本人が決して理解できないものだろう。この集団主義と義理によって、中世の人々は自らの個性を押さえつけられていた。自分がする行動を決めること、自分が何を思うかを決めるものは自分の個性ではなく集団の考え方や、義理であった。個性、個人の意見はない方が良しとされていたのだ。
この集団主義と義理がはじめて入れ変わり始めたのが、江戸時代が終わり、近代に突入し、西洋の考え方が入ってきた明治時代だ。漱石はそんな時代に生きていた。そんな漱石は「わたしの個人主義」では個人主義の必要性について論じている。ここでの個人主義とは一般に考えられる利己主義的なものではない。「わたしの個人主義」からいくつか抜粋しようと思ったが、あまりにも大切な所が多すぎて抜粋だけで批評が終わってしまうので、今回は要約だけ書く。ただ、この「私の個人主義」は「こころ」を読む上で、又夏目漱石への理解を深め他作品への理解を深める上で欠かせないものであるので読んでない人は読んでほしい。
 まず、この「わたしの個人主義」は漱石が大正3年に学習院の学生に講演にいった時の講演内容を文字に起こしたものだ。こころを書いていた年と同年である。前半部分では、「自己本位」という単語がキーワードになり、他人の意見ではなく自分の意見を持って自分の個性を発揮して人生を生きていかなければいけないことが書かれている。そして後半では、権力や金や自由を持ったからといって、他人の個性を批判したり蔑ろにするのではなくお互いの個性を尊重すべきだと書かれている。
 このことから漱石の考える「個人」、そしてこころの中における「個人」とは、権利と自由を手にいれた人々が、自分を律しながらも自分の意見に基づいて自分の個性を発揮させられる人物である。「こころ」の作中でも先生は明治を「自由と独立と己とに満ちた時代」と述べていることから、そのような時代に自己が自立しており、自分の意見で自分の人生を歩んでいく人間が個人として大成していると漱石は考えていたのだろう。
 この明治時代に漱石が個人主義を主張したのは時代の流れを見れば明らかだ。明治時代とは、江戸時代が終わり、集団主義や義理といった考え方が日本史史上初めて終わりを迎えようとし、新たな日本の幕が開けた時代だ。そして漱石が江戸の最後の年に生まれ、江戸の考え方で育ったということは前述したが実はこれは「こころ」の先生にも当てはまる。先生は明治7年もしくは8年生まれだが、先生の親世代は江戸時代の考え方を持っていたと考えられることから、先生もまた、漱石と同じように江戸時代の考え方で育ったといえる。一方、青年は明治19年生まれであり一見先生と年齢差がないように思うが、青年の親世代は物心ついた時から明治時代を生きており、青年は明治時代の考え方で育った(少なくとも江戸時代の考え方では育ていない)といえるだろう。つまり、「こころ」の主要人物である「先生」と「青年」は漱石の主張する個人主義を受け止める素地が全く違うのである。
 ここで「こころ」の考察に戻りたい。
「私の暗いというのは固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生まれた男です。又倫理的に育てられた男です。その倫理上の考は、今の若い人と大分違ったところがあるかもしれません」(こころ下172P12行)これは先生の手紙の一節であるが、このことから、少なくとも、漱石と先生と青年とでは育った、そして生きてきた環境が違った、そして先生はそれを意識していたことがわかる。
「自由と独立と己とに満ちた現代に生まれた我々はその犠牲としてみんなこの寂しみを味わなくてはならないでしょう」(こころ上47P10行)これは先生が青年に言った一節だが、これこそ、育った環境と生きた時代のずれに特に苦しんだ先生と漱石の孤独を最も表す一節だ。漱石と先生二人に共通するのは、自分の行動の全てが他者や道理、更には神という考え方も強くあっただろうか、そのようなものに決められることが当たり前だった時代の考え方から、急に「自由と独立と己とに満ちた時代」に個人として生きることを求められたということだ。漱石がそんな自分と同じ世代の先生という登場人物を語る作品をあえて作ったのは、先生を漱石の代弁者としたかったのだろう。これからは漱石の考え方=先生の考えとしたい。
 最初に戻って、ではなぜ先生は青年に『何か』を伝えようとしたのだろうか。まず先生の苦しみから紐解いていきたい。先生の苦しみは、上記の苦しみ、時代の狭間での苦しみ、に加えて、人間を信用していない、できない、という点と、Kに固執してしまう自分から逃れられなかった点の三点が挙げられるだろう。
 人間を信用できなくなった理由は自明だ。すなわち信頼していた叔父に裏切られ、世間の人々を信用できなくなり、それでもまだ自分自身は立派な人間だと信じていた時に、自分も叔父と同じような人間であることを思い知ったからだ。Kを陰で裏切ってしまった自分、Kよりあえて優位に立とうとしてしまった自分、そんな自分がKの自殺によって自分の中に重くのしかかってきた。そうやって自分という人間さえも信用に足りる存在でなかったことを思い知った先生は、全ての人間が必ず負の部分を併せ持つことに絶望し、耐えられなくなった。だから人間が信用できなくなったのだ。然しそんな中、奥さんの母が病気になった時に先生は一生懸命看病している。そしてその理由は「もっと大きな意味でいうと、ついに人間のため。ー異種の罪滅ぼしのため」と先生は言っている。それはつまり先生が世間から罪を許されたい、そして、孤独からぬけ出したいと思っていることの表れだ。おそらく先生はこころのどこかで誰かを信用したいと思っていたのだろう。然しどうやって、何を持って信用したら良いか分からず、ただただ日々が過ぎていったのだろう。
 然し先生は青年のことを最後は信用している。先生のどこまでも深い人間への不信感、それが青年にだけは当てはまらなくなったのだ。最初、先生は青年に「過去を知ったら幻滅するでしょう、そして復讐するでしょう」と言っている。然し、すぐ先生に飽きるだろうと思われていた青年は、最初と変わらぬ誠実な眼差しを作中でずっと先生にむけている。先生はとても洞察力がある人だっただろう。だから自分の行動から自分の良くない面も全て導き出して悩んでしまうし、他人に対しても然りだったのだろう。だからこそ先生は推測が外れることで青年を信用することができ先生の過去も伝えることができた。青年が先生の過去を聞いて「幻滅以外の何か」を感じ取ってくれると信じることができたのだ。これは奥さん、ましては他の誰にもできず、青年にしかできないと先生は考えたのだろう。
「私の鼓動が止まった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるのなら満足です」
(こころ下173P12行)
この新しい命が、まさにその幻滅以外の何かを感じることだ。そしてそれはすなわち「個人になること」である。

   然し妻が私を理解し得たところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場からくる愛情よりも、多少義理を外れても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも多いように思われますから(こころ下319P12行)

この物足りなさとは前の行にある「先生を奥さんが理解し得ないから起こるぼんやりとした希薄な点」のこと。
先生が奥さんには伝えなかった理由、それは先生が奥さんだけに親切にしていること、すなわち先生の罪滅ぼしの行動を奥さんが多少気に入っていた、と先生が思っていたからである。もし奥さんに伝えるのなら、「幻滅以外の何か」とは、個人になることではなくまたほかの別の事だったと思う。しかしやはり奥さんも先生の洞察の中を超え、人間への不信を覆す人たり得なかったのだ。
 ここで次の先生の苦しみについて述べたい。前述したように先生(と漱石)の持つ個人の考え方は自己が自立しており、自分の意見で自分の人生を歩んでいく人間のことだ。漱石は個人として大成できたが、先生はできなかった。どこまでいっても個人として生きることができなかった。先生はそれを人々の前で隠しつつもひしひしと感じていたのだと思う。それは、先生がKの死、言い換えれば自分の罪というものを見つけ出し、そこから抜け出せなくなってしまったからだ。

   その時私の受けた第一の感じは、Kから突然の恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室のなかを見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立に立竦みましたそれが疾風の如く私を通過した後で、私は又ああ失策ったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はガタガタ顫え出したのです。(こころ下302P13行)

これはKが死んでいるところを発見した先生の様子である。「もう取り返しのつかないという黒い光が私の未来を貫いて私のこれからの全生涯を物凄く照らした。」とあるように、ここで先生は、Kの死が先生の未来に一生取り憑く呪いになってしまうことに直感で気づいている。そしてその直感の通り先生のそれからの生涯は、Kの死から逃れられなくなってしまったのだ。中世には集団主義における他人の目や義理など自分のすべきことを決めてきた存在があった。そして先生にとってその「自分の行動を決める存在」は「Kの死」となってしまったのだ。個人主義という考え方を用いれば、もう個人にはなれなくなってしまったとも言える。

   すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時代遅れだという感じ激しく私の胸を打ちました。(こころ下323P12行)

この文より、先生が「明治の精神に準じて死ぬ」と言ったわけは、江戸の香りがまだ残っている明治だからこそ自分のような個人になりきれない半端者でも生きることを許されたと感じたからということがわかる。漱石がこころを乃木将軍の殉死に感銘を受けて書いたことは知られているが、漱石は当初、乃木将軍の殉死について当時の日記や書簡には触れていなかったらしい。三好行雄は「『こころ』について」で、漱石は、明治が終わって大正という時代を生きていった中で、乃木将軍の殉死、明治と共に終わりを迎えた人の死を考え、大正と明治は全く違うことを痛感したのだと考えている。このことから、漱石は、先生のような人間は大正という時代に生きられなかったと実際に感じたからこそ、あのタイミングで死ぬべきだと思ったのだ。
 又、「義理」を体現したものとして殉死がある。例を挙げるとするなら、森鴎外の「阿部一族」が有名だろう。この作品も乃木希典の殉死に影響を受けて書いたものとされている。殉死とは主君の死後、後を追うことが正しいという義理に基づいたものである。実際徳川幕府は殉死を禁じているので対策を講じなければならないほど当時よく行われていたことがわかる。そしてこの殉死をしたのが乃木希典だ。乃木希典は中世の義理という考え方、さらにそれを死を持って体現するという殉死を明治という近代にもってきた。当時としても非常に珍しく、異物のようなものだったろう。乃木希典の死を知った先生は、こんな中世的な行為が許されたのも、また、明治だからでは無いかと感じたのかもしれない。そして中途半端な自分が死ぬにはやはり明治と大正の変わり目のあのタイミングだと感じてしまったのだろう。だから明治の精神に殉じて、中世的な義理を、体を持って、死を持って体現した殉死という行動をしたのではないか。
 つまり先生は時代の狭間での苦しみ、罪を犯した自分という人間とひいては人間自体を信用できないことで苦しみ、そしていつまでもそこに固執し悩み個人になり切れない自分という苦しみが複雑に重なりあって死んでいったのだ。ではなぜ先生は青年に個人となることを伝えたのか、この疑問に立ち返ってみよう。青年は先生を盲信していた節があると思う。これはあえて抜粋しなくても青年が先生のことを先生と呼んでいることや、先生の過去に固執している点、そして青年が先生から思想上の問題において大変影響を受けたと言っていることなどからもわかるだろう。そしてそれを先生は心配していたんだと考えられる。

私は寝ながら自分の過去を顧みた。又自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、又意味のないような変な神に思われた(こころ上98P12行)

これは青年が卒業した時の一節である。大学生なら自分の将来に不安があったり将来のことがほとんど決まっていないのは仕方ないが、先生が心配していたのは青年のこのような部分であろう。漱石の「私の個人主義」では漱石も卒業後、自分を見失ったとある。漱石がそのように自分のやるべきことが何かわからず苦しんだからこそ、そのどこまでも深い悩みに踏み込もうとしている青年を、漱石が救われた個人主義という考え方で、救いたいという思いがあったのではないか。それゆえに、先生は青年に先生の過去を伝える形で個人になることの重要性を伝えたのだ。
 では青年は個人となれたのか?そして先生からのメッセージを受け取れたのか?青年にとって先生の過去はどうしようもないくらい衝撃的で重かっただろう。個人として生きるのも先生の過去を受け止めるのもそう容易なことではないはずだ。然し、この「こころ」を青年が書いたという形式を取っている以上はどこかのタイミングで青年は先生の過去を受け止め、メッセージを受け止め、個人となれたのだ。各々のタイミングが違ったとしても。さらに、青年は先生への妄信からも解き放たれることも出来たと思う。たとえばこんな一節がある。
「余所余所しい頭文字などはとても使う気にならない」(こころ上7P4行)これは描き初めの一節であるが、余所余所しい頭文字とは恐らく「K」のことだ。青年は先生の「K」という表現を批判している、もしくは少しおちょくっている。先生を悩み苦しんだ一人の人間として客観視し、先生の過去も客観視できたということだ。
加えてこころの上の8章に出てくるこれらの文から考える。
「経験のない当時の私は、この予言(=先生の家を訪問しなくなること)の中に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。」「年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだことがなかった。」
「子供を持ったことのないその時の私は、子供をただうるさいものの様に考えていた」このように当時の自分を青年が振り返っている文からも、青年は先生がKに囚われていたようにいつまでも先生の過去に囚われることはなく、人生の経験を積んできていると言えるだろう。
 さらに、青年が「奥さん」が生きているのにこの文を書いているということは驚くべきことだ。腹の中にしまっておいてくださいと言われたのに、ちゃっかり文字として残してしまっている。この理由は青年が個人とは、そして人間とは、という先生が悩んできた問いを青年もまた悩み出したからだと考えられる。様々な経験を積んで大人になったかつての青年、先生の教えから個人となり、近代を生きてきた青年、そんな彼が行き止まってしまった時に、Kの死によって先生がKに縛られていたように、先生の思想に少なからず自分も縛られていることを悟ったのだ。だからあえて先生の言いつけを破ることで、自分が先生からの十字架(=思想)を降ろし、そして「個人」として生きていくために、この本を書いたのだと思う。これこそまさに個人主義における個人ではないだろうか。
 最後にまとめとしてこころの題名を推測してみる。漱石は最初、題名を「心」とする予定だったらしい。然し途中で「こころ」と改題したという。漱石は漢文学の研究にも熱心であったことから、日本独自の文化であるひらがなと、中国のものでもある漢字の分別には大きな意味があると思う。あえてひらがなにしたのは心というものに含まれる意味を狭めるからだと思う。漢字の心には様々な読み方がある。心臓や心情など、精神的な心はもちろん肉体的な心臓などの意味もある。しかし、ひらがなの「こころ」は心情のこころであることは明確だ。加えて、日本独自の文字であるひらがなにしたのも漱石が近代に突入し揺れ動く日本人のこころを書きたかったという面が考えられる。更に、漱石は、広告文で「こころ」のことに対して「人間の心を研究するものはこの小説を読め」と書いたらしい。これらを踏まえると、漱石は、この急速に変わりゆく大正という時代と様々な考え方が混雑した明治という時代、そして古き江戸時代、これらの時代の流れを通して変わっていく人々の心のありようを伝えたかったのだと思う。そしてそんな中で変わらず続いていく人間の負の部分も。だから漱石は「心」とせずに「こころ」としたのだ。

<引用・参考文献>
夏目漱石、1914、「こころ」、岩波書店
     1914、「私の個人主義」、ちくま文庫
三好行雄、1981、「『こころ』について」、こころの後書きに記載、発行所は不明
種村李弘、1970、「器具としての肉体」、中央公論社
森鴎外、1913、「阿部一族」、中央公論社
<あとがき>
①本文内容、背景知識、先行研究
②全ての主張を本文からの根拠を持ってきて論理的に説明できた点を見ていただきたいです。大きな問い(先生は青年に何を伝えたかったのか)に対するたくさんの小さな問いや前提とする思想などの論点を明確に書けたと思います。漱石の思考回路や当時の時代背景を合わせて論を展開している点は独自性があるし、説得力があると思います。
③まず、タイピングが早くなりました。次に、私は今まで、自分の主張に根拠が足りないと言われることが多かったのでそこを重点的に、矛盾がないように書くことができ、成長できたと思います。又、一つの作品の色々な見方(ちくまの筆者の主張、あとがきの解釈など)から、自分の主張を作り出すこともできました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?