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短篇小説 『優先席』

仕事を終えてひどく疲れた様子の男がホームで電車を待っている。

プシューー
ドアが開くと男は電車に乗り込み、すぐに空席を探した。

良かった。この時間は混むと思っていたが、優先席が空いていた。

なに、優先席は誰か優先するべき人が来たら席を譲ってあげれば良いのだ、今は誰もいないから自分が座っても何の問題もない。男は真っ先に優先席に腰を下ろした。

夕方の電車は人々の疲れと憂鬱をのせて走り出した。

プシューー
次の駅に泊まると老人夫婦が入ってきた。
空席を探していたが見当たらず、吊り革を持って並び立ち、時々優先席の方を見ていた。

男は席を譲らなかった。なぜなら、自分一つの席を譲っても相手は夫婦だし、どちらかが立たなければいけないからだ。

つまり、それは自分を含めると3人中2人が立たなければいけないことになり、全体のバランスが悪くなる。ならば自分が2人に干渉せず、席を譲らない方がバランスは保たれ、問題を未然に防げる。

平和的解決策だ。

プシューー
次の駅で老夫婦は駅を降りた。そしてお腹が膨らんだ女性が乗ってきた。お腹を大事そうに手で守りながら空席を探したが見つからず、男の近くで立った。

男は席を譲らなかった。なぜなら、この女性が妊婦であるという証拠などないからである。

もちろん、妊婦であるならば席を譲るに決まっている、人として当然だ。

しかし、家で怠惰な生活を送り、お菓子やジュースを貪ってできた体型である可能性が排除できない今、譲るわけにはいかない。もしそうだとしたら、立つことで足の筋肉を使わせるのはこの女性のためでもあるのだ。

プシューー
次の駅でその女性は降り、ドアの前で心配そうな顔をした男性に手を振り合流すると、2人で話をし、お腹をさすりながら消えていった。

ゴトゴトと心地よく揺れる電車はゆりかごのように感じ、男はうとうとし始めた。

プシューー
男は扉が開く音で目を覚ました。
まだ目的地までは着いていなくて安心した。

「すみません、席を代わっていただけませんか。」
突然目の前からか細い声が聞こえた。男は驚いて顔を上げると、ワイシャツのネクタイを緩め、青白い顔をした青年が立っていた。若いな、新卒だろうか。

「私も疲れていてね、申し訳ない。」
うとうと気持ちの良い時間を妨げられた男は少しイライラしながら言った。

周りの人がちらりと男を見たが関係ない。昨日まで学生だったような若い学生と、仕事で疲れている自分を比べたら、譲らなければいけない道理はないからだ。判定勝ちだ。こちらをちらちら見るくらいならお前たちが代われば良いだろう。男は内心そう思った。

席に座れないことを知り、青白い顔の青年の顔はさらに生気を失ったように見えた。

青年は振り絞るように言った。
「すみません、さっきまで会社の先輩の飲みに誘われて無理矢理飲まされて気持ち悪いんです。だから…うっ…」

プシューー
乗客が蜘蛛の子を散らすようにドアから降りた。数人乗ってきたが、車両内の光景を見ると口を押さえて、別の車両へ逃げていった。

もはや男は優先席を譲る必要などない。
いや、この席から動けなかったのだ。

彼は目の前でうずくまっている青白い青年を見ながら、汚れた自分のスーツをどうしようかと考えることで必死だった。ようやく思考が状況に追いつき、怒りと動揺をぶつけようとしたが、その矛先である青年はいつの間にか車両の外で介抱されていた。

プシューー
扉が閉まるとゴトゴト電車は走り出した。
身も心も汚れた男を優先席に乗せて。

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