どうでもいいエッセイ「ナリタブライアンと私」
※馬券の購入は20歳以上からです。
20歳未満の方は馬券を購入しないようにしてください。
(約1,800文字 読了まで約5分)
私が競馬にハマってしまったのは、ナリタブライアンがキッカケだった。
ナリタブライアンは、1991年5月3日生まれ。私より10歳も若い。
1993年8月にデビューする。
当時、私は父親が競馬が好きなので、よく大阪の日本橋にあるWINSに一緒に連れて行ってもらっていた。
分からないながら、競馬新聞(うちはエイト派だった)を読んで、覚えて父親と一緒に、月に1回はWINSへ行って、お小遣いが増えた時は嬉しかったし、減った時は、漫画が買えなくてショックだった。
ナリタブライアンには、1歳年上のお兄ちゃんがいた。
「ビワハヤヒデ」である。
皐月賞は、ナリタタイシンに負け、2着。ダービーは、ウィニングチケットに負け、2着だった。
そして、迎える菊花賞。堂々の1番人気。今でも覚えている。
私は、ウィニングチケットから買っていた。だって、ビワハヤヒデの父親のシャルードって誰??私は勝手に長距離血統のイメージが無かったので、3,000mは無理じゃね。そう思っていた。
しかしながら、ビワハヤヒデが最後の1冠を持っていってしまった。何してんねん、ウィニングチケット!!トニービン産駒の方が3,000m走れるやろ!!そう思っていたが、よく考えてみれば、トニービン産駒は、2,400mのクラシックディスタンスが得意であり、長距離はあまり得意ではなかった。
クリスマスに向けて、ゲームソフトを買わなければならない小学生のなけなしのお小遣いが散った悔しさは、忘れはしない。
つまり、ビワハヤヒデが強かったので、弟のナリタブライアンは追っかけていた。
ちょっと初めは勝ち切れなかったが、「京都3歳ステークス」の見事な勝ちっぷりがあったので、菊花賞の翌月の「朝日杯3歳ステークス」は、ナリタブライアンの単勝に全てつぎ込んでもらった。(購入は親父です)
負ける要素はない。そして、お前の兄貴のビワハヤヒデのせいで散っていったお金を取り戻してくれ。
弟よ!!頼む!!
たまたま、朝日杯の時に親父と一緒にWINSに行ったからというのもあるが、こういうのを「縁」というのだろうか。
ちなみに、私と親父の馬券購入の仕方は全く違うので、よく口論になっている。(ちなみに今もだけど)
親父は、賭け事が好きなだけなので、私が熱心にビワハヤヒデの半弟だから、ここはナリタブライアンに賭けるべきだと言っているのに、誰やねんナリタブライアンって?と言って、1番人気だからという理由で、連を外して購入していた。
結果としては、危なげない安定した走りを見せて、見事1着。
WINSの画面を見上げながらガッツポーズをしたのを覚えている。
親父は負けたレースのことは一切話さない。すぐに忘れたがるので、帰りの車の中で朝日杯の話を親父にしていたら、親父がブチギレて、殴り合いの喧嘩になった。
よく考えれば、この時、親父はまだ38歳で若かったんだなと思う。思い出の中では、もう今の私の方が年上になってしまった。
私はナリタブライアンのおかげで、競馬四季報も買うことが出来た。
当時、毎日、あの分厚い競馬四季報を学校に持っていって、読んでいた。
私たちの時は土曜日も学校があったのだが、この頃から競馬にどっぷりハマってしまった私は短波ラジオを持って行って、授業中に競馬新聞を開きながら、実況を聞いていた。
私は見た目重視だから、ちゃんと、右の耳には赤ペンもさしていた。
とにもかくにも、ナリタブライアンには大変お世話になったことは忘れもしない。私は翌年のナリタブライアンが出るレースの全て、単勝を購入してもらっている。
京都新聞杯だけ、1.0倍だったので購入を見送ったのだが、2着だったので良かった~と安堵した。
翌年は京都新聞杯以外は全て勝っている(1994年 7戦6勝 2着1回)ので、偉大な三冠の興奮とともに、私は競馬を大好きになってしまったのであった。
引退してから、種牡馬入りしたが、 残念ながら1998年9月27日 享年8歳の若さで亡くなってしまった。
ナリタブライアンに出会えたから、私は高校生の間に6回ほど馬も見に北海道に行っている。
中学1年生の時から読んでいた「じゃじゃ馬グルーミン★UP!」の影響も大きい。
家族で3回。アルバイトして1人で2回。そして、高校の卒業旅行は、私が北海道にしようと言い続けて、北海道に友達8人で行ったことも、懐かしい記憶である。
兎にも角にも、私の人生に大きな影響を及ぼした名馬であった。
今でも持っているナリタブライアン引退の時のポストカード(だったと思う)
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