団塊の世代に言われた嫌なことにnoteで反論してみた。
今回は、若者と簡単に片づける団塊の世代にうんざりした話で愚痴になります。特に得する内容でもないため、サラサラと書くように心がけますのでサラサラとお読み下さい。
「今の若者は辛抱が足りない」そんなことを言う高齢者多くないですか?高齢者だけでなく今の若者派と一色単にしてしまうことがひとつの問題でもあると思うのですがその問題が高齢者からするとシンプルに問題を片づけたいがために「今の若者」と一色に塗りつぶしてしまいます。
たとえば「今の若者は辛抱が足りない。結婚してもすぐに離婚するし、親と一緒に過ごさないで核家族になっている。そのくせ子どもの面倒は親に見てもらおうとするなんて厚かましい」という言葉があるとします。今の若者は結婚してもすぐに離婚するというのは本当でしょうか?
令和4年(2022)人口動態統計月報年計(概数)の概況 人口動態総覧(率)の年次推移
離婚率を1990年から見てみると2002年にピークを迎えて2020年に徐々に下がってきているのが分かります。ちょうど今の高齢者の子どもである、団塊の世代ジュニアが結婚をして離婚をするという世代くらいでピークを迎えています。しかしながら現在の離婚率でいえば徐々に下がってきており、離婚率の状況から「今の若者は辛抱が足りない」という結論にはシンプルには至らないはずです。
また、労働環境の改善も離婚率に非常に大きく影響を及ぼしています
1989年の男女雇用機会均等法施行以前にも家電が進化し家事に使う女性の時間が短縮されたことによってパート労働にて女性の収入は増加傾向にあり、均等法以降に関しては出産・育児の縛りはありつつも女性だからといって仕事がないという事態には陥らず、仕事をして収入を得ることができるようになった女性はその収入で生活を営めるために、男性の労働収入をあてにしなくてもいいという状況が出来上がりました。
カナダでベーシックインカムが広がって一番初めに起きたのは「離婚する人が多くなった」ことです。お金を手にした人間は相手に依存しなくても生きていける。そんなに我慢しなくてもよくなったのです。団塊の世代に言わせれば「辛抱が足りない」の一言で済む話ですが、辛抱する環境にないということが現代では言えるでしょう。
また団塊の世代とは人生の目指すべき価値観も全く異なります。日本の団塊の世代は夫婦二人子ども2人の4人で人世帯というパッケージを国から提示されてその4人家族を多く提示してきました。その家族を作り営むことが国民としての価値観であったといえるでしょう。しかしながら、現代では家族を作るという規範は多様性という言葉によってほぼ強制されるということもなくなり、自分の生きたいように生きる。自分自身がやりたいことをするというような生活を目指していると思います。
結婚して家庭を持つという一元的な価値観でものを見ていないので結婚制度自体にもこれから問題提起を行っていくようにも思われる現代では「すぐに離婚する」というキーワードは遥か太古のおとぎ話となっていきます。
また、「親と一緒に過ごさないで核家族になっている」ということですが、団塊の世代の言い分としては、我慢を知らないから姑と暮らしたくない。だから自分たちで家を建てて35年ローンで苦しんでいる。そんなに苦しむなら同居しろ。辛抱しろ。ということでしょうが、核家族になった原因は果たして嫁姑問題だけでしょうか?大多数の理由として占めるのは、産業構造の変化によって核家族化が進んだということが多くの核家族の理由だと思います。
日本の産業別人口構成を見ていると戦後1950年は第一次産業である農業、林業、漁業などが日本人の半数を占めていましたが、第三次産業である商業、金融業、医療・福祉・教育などのサービス業に1960年代に追い抜かれて2015年には14倍の数の日本人が第三次産業に従事することになっていきます。これは日本人の総サラリーマン化を表し、その会社に終身雇用で雇われることで安定した給与と人生を得るという構図が出来上がっていきます。サラリーマン化することによって家業として継ぐ場合生まれた土地にいて農業、林業、漁業をするというような人口が減っていき、会社の都合で「転勤」する人口が増えていくことによって転勤先で家族を持つという「核家族」が増えていったのです。核家族を増やすことによって日本は高度経済成長を果たしてきたし、国民に第一次産業よりも権威のあるスーツを着たサラリーマン化を進めていきました。2024年現在では農家よりもサラリーマンの方が権威があるとは言えませんが1960年代としてはサラリーマンの方が権威がある仕事とみなされていたのでしょう。安定していて権威がある男性に農家の娘は結婚することによってサラリーマンの妻という権威に属することになります。上昇婚と呼ばれるハイパーガミーです。
上記のことが起こるようになって、日本人は家庭を持つと家を建てるという思考が一般化されてい行き、なおかつ嫁姑と同居するということはその職業、住む場所においても難しいといわざるを得ないでしょう。
「親と一緒に過ごさないで核家族になっている」ということは若者が辛抱が足りないのではなく、産業構造の変化によってもたらされた人間の住居環境の変化なのです。
それを「若者は辛抱が足りないから」という一言で済まそうというのは、その方が簡単だからです。ほかの要因に目を向けずにシンプルに片づけるにはこの言葉でよいのです。この言葉一つで気持ちよくなれえる魔法の言葉なのです。
「そのくせ子どもの面倒は親に見てもらおうとするなんて厚かましい」とのことですが、子どもを見てほしいと一番初めに若者は言うでしょうか?赤ちゃんが生まれたときに団塊の世代は子どもの子ども、孫の顔を見るために病院に来ます。だからといって子どもは親をはじめから頼りにしているでしょうか?団塊の世代は里帰りといって赤ちゃんが生まれたら一か月「嫁には水も触らすな」というほど手厚く持て成すときには親に赤ちゃんのお世話をしてもらっていました。今でも里帰りをされる方もいるとは思いますが、それ以降はこっちで育てますよ。という過程は多いと思います。
ひとこと言わせてもらうと団塊の世代の方から「いいよ。私見てるよ」党う一言を子どもに声掛けしているように思います。孫はかわいい、団塊の世代は寂しい。そのギャップを埋めるようにくっつく孫とばあちゃん。それを恩を売ったとでも言いたげに「子どもの面倒は私らに任せるなんてなんて虫のいい!」というようにあたかも被害者であるかのように発言するなんて都合のいい言葉たち!!
自分たちの子どもは孫を自分に押し付けて遊びに行ってる。「私らからは、考えられんわ」という状況を自分たちで作って被害者ずらしているのが「団塊の世代」なのではないですか?
でもひとつ言うならば「団塊の世代」とひとくくりにするのも現代の若者よりも容易なようで難しく、被害者面して若者たちは。という団塊の世代とあなたたちのおかげでこんなに幸せ感じてるわと感謝を述べる団塊の世代も一定数いるのは言及しておきましょう。
団塊の世代はあまり教育されていないのだと思います。今の世代は教育がしっかりとはどこされているので感情ではなく、教育上の情報ありきでお話している。教養があるのです。
リハックで千原兄弟のお兄ちゃんが世田谷区でたばこのポイ捨てをしているのは老人たちばかり、でも若者はしっかり教育されているからポイ捨てなんかしない。ポイ捨てするのは老人たちばかりですよ。という言葉通り、しっかりと教育を受けていれば感情だけでない客観的視点からの言葉というのも出るのだと思います。
かといってこの記事を書いたのも自分の感情だからあまり褒められたものではないのですが、「若者」と一色単に簡単に片付かないということを書いておきたかったのです。
ではでは~。