ソレル『暴力論』第五章

ソレル『暴力論』、木下半治訳、岩波文庫、1933年

上巻p. 202

神話において重要なのはその全体だけ。それを用いる革命家が考えたことが完全に間違っていたとしても、社会主義の願望を完全に取り入れたものであるなら、それでよい。

→その人が何を語るかよりも、何をするか。言語や知性の使用において間違えていたとしても、その人の行動がちゃんと機能していればよい。ベルクソニスムの片鱗を感じる。(社会がなにを語るかではなく、何をしているか。『二源泉』)たしかに、言語の軽視といわれても仕方ないが、社会や権力者は嘘をつくのだから、こうした視点は必要なのは言うまでもない。このソレルの論を裏返すと、いくら正しいことを言っていても、資本主義に与する神話を語っているなら、ダメだと言うことになる。
→ルソーの一般意志は間違わないという論も思い出す


p. 242

資本主義から社会主義への移行が、描写を許さないカタストロフであるということ

→非連続性というよりかは、ひとつの質的な飛躍であるということか。描写されえないのは、描写のためには既存のものを用いなければならないからだろう。この場合、資本主義の内のものを用いて、社会主義への移行を語ることができないということ。


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