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Please tell me! vol.1 山下 健太郎


Please tell me!(教えてください)の第1回目は山下 健太郎(やました けんたろう)さん。山下さんは、氷見市において地域おこし協力隊の1期生として氷見に訪れ、任期後は、氷見市に在住。


そんな山下さんに「氷見市」に来るまで、どんなふうに過ごされて来たのか、どんな経験をしてきたのかを色々と聞かせて頂きました。


対談場所は『#ヒラク』(氷見市中央町商店街にあるコミュニティスペース)
山下さんにとって、このヒラクは、とても思い入れがある場所であり『新しいことを始める・取り入れる』『表現をする』には相応しい場所はヒラクだと思い、そこを対談場所として選びました。

※この対談では、相手の同意を得ながら行っております。
また、対談の雰囲気を味わってほしいと思い、話し言葉が多く、読む方にはお見苦しいとこが多々あると思いますが、ご了承ください。

それでは、対談の模様をご覧ください!


『地元について』

中島:お忙しいところ、今日はありがとうございます。また、この企画に賛同して頂きありがとうございます。今日は、色々と聞いてしまうことが多く不適際なとこもあると思いますが、よろしくお願いします!
山下:はい、よろしくお願いします。

中島:まず、健太郎さんの『地元』を教えてください。
山下:地元は『福岡県』の『北九州市小倉』で『小倉北区足立』です。中心の市街地から、約20分離れた場所が地元になります。

中島:その地元の『特徴』あるいは『特産』って何ですか?
山下:そうですね。特産物は少なく工業・商業が中心の街という印象ですね。特徴としては、炭鉱の街だということですね。でも、小学生の頃に、炭鉱は衰退しつつあり、商工業が中心になっていた気がしますね。

中島:炭鉱が盛んだった街か。日本の経済、工業を担っていた場所ですね。歴史ある場所ですね。
山下:そうですね。でも、本当に自分が小さい頃は、あまり感じなかったですね。

中島:なるほど。では、その時、感じたことや記憶に残っていることは?
山下:商店街が賑わっていましたね。その頃は、郊外に大型スーパー等は無かった時代だったので、休みの日や日曜日は、親と商店街に行くことが多かったですね。その時は、真っ直ぐ歩くのが困難でしたね(苦笑)


『少年期』

中島:子どもの頃は、どんなふうに過ごされていましたか?例えば、何をして遊んでいたのか、また、その頃の健太郎さんの視点で小倉は、どんなふう見えていましたか、感じていたことがあれば、お聞かせください。

山下:そうですね。遊びに関して言えば、近くの空き地に穴を掘って秘密基地を作ったり、公園でかくれんぼをしていましたね。あと、住んでいたマンションの各階を縦横無尽に駆け回って鬼ごっこをしていましたね。今、マンションで鬼ごっこをすると迷惑行為ですよね(笑)あと、野球といった球技は、好んではしなかったですね。

中島:たしかに、縦横無尽にマンションを駆け回って、鬼ごっこをするのは、今じゃ迷惑行為ですよね(笑)ただ、僕もやっていました(笑)

山下:とにかく活発的に動き回っていることもあれば、友人宅でマンガを創作したり、幅広いジャンルのマンガを読んでいましたね。あと、クイズ番組が流行りだした時期でしたね。ちょうど、アメリカ横断クイズが始まった頃ですね。

中島:司会は、福澤(朗)さんですか?
山下:いや、福留(功男)さんの時ですね。
中島:(ジェネレーションギャップ(笑))


中島:小学生の時は、遊び以外のことを教えてもらっても良いですか?
山下:「ヤンキー」が多かったのと活発的でしたね(笑)当時の公立中学校は「ヤンキー」が多くいたのと、中学受験をして中高一貫校に行く子が半々いた感じですね。あと、公務員や医者といった堅実なとこに勤めている家庭と、工場勤務や工業関連の仕事をしている家庭が半々だったような気がしますね。
堅実なとこに勤めている家庭の子は私学に進み、工場勤務や工業関連の家庭は市立に進む感じでしたね。今は、分からないですが。

中島:「ヤンキー」は僕らの頃は、死滅状態です(笑)
山下:そうですよね(笑)

中島:あと、ここ(氷見市)では、あまり中学受験をする人は少ないですね。僕の周りで、中学受験をする人はいなかったと思います。基本的には、公立に進む子が多かったですね。
山下:そうなんですね。あと、進学受験というものが、子どもの頃から身近にありました。
中島:こことは環境が違いますね(笑)
山下:あと小学校を卒業した後、中学から大学までは、寮生活を送っていました。また、中学に上がるタイミングで両親は、沖縄の浦添市に移り住んだので、小倉に住んでいたのは小学校までですね。

『中学時代~多くの思い出と、表現に目覚めていく瞬間~』

中島:中学受験について、もう少しだけ詳しく教えてください。
山下:親としての思いは医者になってほしかったのではないかと思います。父親がMR(メディカル・レプリゼンタティブ:医療情報担当者)という仕事をしていたので、その影響もあってか、医者になってほしかった思いがあったみたいです。だけど、自分は医者になるよりも『考えること』ことが『楽しい』という気持ちの方が強かったですね。

中島:その『考えること』が『楽しい』という気持ちになった出来事って何ですか?
山下:小学校の頃に、塾のおかげですね。そこの塾では『考える』授業を中心に行っていて、少しずつ学力が上がっていくにつれて、成績も上がっていましたね。
それから『考える』ことが『楽しく』なりました。あと、中学から習う方程式等を学んでいましたね。それは、ただの数式を使ってではなく日常あるものを数式に当てはめていくことや、方程式に当てはめていくことをしていましたね。
中島:(笑)

中島:中学生の頃の寮生活等を、聞かせてください。
山下:衣食住は特に気にはしないで過ごしていましたね。寮は、4人1組の部屋で、22時消灯だったけども、消灯した後は音楽やラジオを部屋の仲間たちと聞いて笑っていましたね!気の合う仲間と過ごせたことが楽しかったですね。
あと、思春期にある反抗期はなかったんですが、通い組は少なからず反抗期はありましたね。
他あるとしたら、中学から高校まではエスカレーターで、男子校でしたね。途中から、悩みはありましたね。小倉、地元に戻りたい気持ちもあれば、共学に進みたい気持ちもありましたね(笑)

中島:夏休みと言った長期休暇は、どのように過ごされていたのですか?
山下:先ほども言ったと思いますが、両親が沖縄の浦添市に移り住んでいたので、長期休暇はそこに行っていましたね。当時は、土地勘がなかったのですが、自転車に乗って、自宅近辺や、少し遠出したりしていましたね。米軍基地が近くにあったので、その周囲を自転車で周ったり、近岬や海辺、さとうきび畑や浦添市内を自転車で行きましたね。

中島:アグレッシブですね。
山下:そうですね。今になって思うと、もっと色んな場所のことを知っていれば行動範囲が広がっていたと思いますね。あと、第二の故郷というよりも「お客さん」って感じでしたね。
中学生だったので、周りの方たちと交流は無かったですね。今だと、周りの人たちと交流することは積極的にしたいと思いますね。
中島:中学の頃の思い出は、何がありますか?
山下:中学の卒業制作で小説を書いたことですね。エスカレーターだったので、高校受験が無かったんですよ。受験がない代わりに、卒業制作をするというのが、その学校の伝統というか、仕来りみたいなものだったので、僕は自転車で沖縄(浦添市)に周ったことなど、経験したものを書きました。
それと、中学の部活は科学部に入っていて、そこで化学(ばけがく)を学んだり実験をしたことをまとめて書いたり広報として発表していたのが好きでしたね。その時に、モノを書いて発表するのが好きだなと思いましたね。


「表現の世界にのめり込んでいく高校生活」

中島:中学の時には、表現することが好きだったと仰っていましたが、高校では、どんな表現活動をしていたのですか?
山下:高校の時は、友人が演劇部にいたので、自分も入部しました。人数は多く居なかったのですが興味・関心がある人が集まっていましたね。
演劇部で良かったのは、表現することも大切でしたが、寮の門限を気にすることはなかったのと、女子との交流があったことが楽しかった!ですね(笑)
あと、自分たちの学校は小劇場を、自分たちの手で一から作ることが多かったですね。前年に流行っていたものや、自分たちが作りたいものを話し合って作るということが多かったですね。

中島:自分たちのオリジナルを創っていたことが多かった?
山下:そうですね。自分たちのオリジナルが多かったですね。とにかく自分たちのものを創っていましたね。
中島:表現や創るだけではなく、演劇部の魅力は何がありましたか?
山下:部室が屋上にあったことですね。屋上を独占で使用していたので、朝練の時は、
ランニングして発声練習をしていましたね。朝日が昇るのを眺めることもありましたね。
まさに、特権ですね(笑)
中島:羨ましい(笑)

中島:演劇部や中学の時に化学部を通してですが、得たことは何ですか?
山下:そうですね。『興味を持つこと、小さな気づきを深掘りして、自分の知識にする』ことですね。あと『表現』ですね
中島:それが今に活かされていることもありますか?
山下:ありますね。やっぱり、自分が知りたいことを深掘りすることや、自分が何をしたいのかを表現する。つまり可視化すること、言語化することが大事だということですね。
中島:自分には、そう言ったとこが足りないとこなので勉強になります。

「自分が決めたとこへ進学」

中島:大学進学は、どう決めましたか?
山下:僕は京都に行きたかったので、京都の大学に行きましたね。周りは、関東や九州の大学、国立の医学部を目指している人が多かったです。でも、僕は自分が行きたいことに行きたかったのと、父は京都の大学を出ていたので、自分の中では大学といえば京都というイメージがあったので、京都の大学に進学しましたね。

中島:大学生活は、どんな生活を送っていましたか?
山下:大学でも寮生活を送っていましたね(笑)
中島:中学から大学まで、寮生活は何年くらい過ごされたんですか?
山下:11年ですね。
中島:凄いです(笑)
山下:(笑)

中島:大学の寮生活は、運営や管理については自分たちで決めること決めなくてはいけないことがあると思います。それは、中高の寮生活とは違うことだと思います。中高と大学での寮生活の違いを教えてもらえますか?また、苦労した点等を教えてください。

山下:そうですね。まず楽しかったことは、入寮選考のパンフレット作りが楽しかったですね。年に一度発行なんですけども。そのパンフレットには、寮の雰囲気だったり、その寮の想いだったり表現しなきゃいけないので、まとめるのは難しかったですけども、改めて思ったのは創るのが楽しいということと、色んなことをやっていた場所、寮だったので刺激的な場所でしたね。
あと、当時は苦労でしたけども、今に活かされていることは多くありますね。約20~30人前後が住んでいる、寮の運営や経理をしていたときに得たことですが、問題等があったら、話し合いで解決をしていました。長丁場の話し合いをしたこともあります(笑)また、マージンの取決めの交渉や自分の想いを言語化し、相手に伝える。相手が何を考えているのか言いたいのかを読み取る。お互いに我慢をするのではなく、お互いの妥協点を見つけ出す。と言ったこと意識をしながら運営をしていましたね。

中島:話し合いで解決をするには、まだ難しい年齢だと思います。それでも自分の想いを言語化する。妥協点を見つけ出すことが良く出来たと思います。
山下:そうですね。でも、根気強さと粘り強く双方の言い分を聞いて、妥協点を見つけ出すことや話を聞くことが大事でしたね。それは、仕事をしていても変わらないことだと思いますし、仕事をしていく上では必要なことですよね。
中島:おっしゃるとおりです(苦笑)

『専攻は建築』

それは創るということを可視化出来るもの

中島:大学で専攻科目は何を選択されましたか?
山下:専攻したものは『建築』ですね。理系の中でも、文化的要素が読み解きながら、新しいものを構築していくのが楽しいと思ったのと、就職に有利かなと思ったので「建築」を選びました(笑)

中島:中高と、子どもの頃のお話を聞いて思ったのは、健太郎さんは自分で表現。または創るというのが好きだというふうに感じます。
山下:そうですね。それはあるかもしれませんね。

中島:『建築』を専攻して学んだことを教えてください。
山下:実は『建築』の知識は、あまり知らなかったので、知識を得ることや覚えるのが大変でした。特に『設計』で図面を書くのが苦手でしたね。実習授業の時ですけども、手描きで抽象的に新しい建築物を書く授業がありました。抽象的でも、その新しい建物には、どんな機能があって、見栄えはどうなっているのか、どんな体験が出来るのかを説明しなくてはいけませんでした。そう言った機能性を考えるのは好きでしたが、書くのはとことん苦手でしたね。そこで『建築』を細分化して考えてみました。
『建築』と言っても絵で表現する人もいれば、建築を立てる発注・予算を考える人もいれば、建築に関わるエネルギーを算出する人もいる。『建築』は『設計』だけではないことを知ることが出来たので、そこから自分が興味・関心があるものを選んでいきました。

中島:発想の転換ですね。自分には足りないものです。この発想の転換を活かしたことはなんですか?
山下:そうですね。卒論ですね。
中島:卒論は、何を研究されたのですか?
山下:建築物に係るエネルギーですね。冷暖房や照明に係るエネルギーが、建築物にどのような影響を及ぼしているのかが気になったので、そのことについて研究しました。その中でも、土を冷やして、冷房のエネルギー消費を抑える研究をしましたね。

『学生を通して得たものは、とことん打ち込むこと』

中島:寮の運営管理、専攻した「建築」だけではなく、学んだことを教えてください。

山下:大学でも演劇をしていました。ただ、高校の時よりも打ち込んでいましたね(笑)
それこそ、休学をしてでも打ち込んでいれば良かったかなと今になって思うこともあります。素人ならではの面白さ、作ったもので外の世界で勝負をしたかったですね。実は、学生なのにプロ集団がいる大学が近くにあったんです。その影響もあって、自分たちでも、学生なのだから、出来ると思っていたんです。
名が売れる。チケットが売れることも大事なことですが、作品の質や特性を知ることも大事なことでした。そのことについても、学びたかったですね。
あと、心残りとしては、国立大が独立行政法人になってから、予算が減らされ、研究費が少なくなっていることに対して、抗議するべきだったと思いますし、学生同士で話し合いをして、当事者意識を持つべきだったと思います。今でも、真面目に研究している人ほど苦しい思いをしているので…。もう少し、真面目に通っていれば良かったと思います。それが、心残りですかね。


『社会人編』

中島:大学では『建築』を専攻されていましたが、その専攻で得た知識や経験を活かして、どのような就職先を選びましたか?
山下:たまたまですが、岐阜の方で建築施工者や受注業者が、建築施工で必要な材料等の見積りや予算を作る代行事業があることを知りました。その他にも『建築』の設計等に関しても、携わることが出来る会社だったので、大学で専攻した知識や経験に加えて、寮生活で得た運営管理も活かせると思い、そこへ就職を決めました。

中島:自分が経験、体験して来たもの活かして、就職、働く場所を決めることは大事なことですよね。そして、福岡から京都、就職先は岐阜と少しずつ、富山県に近づいて来ましたね(笑)
山下:(笑)

中島:仕事を始めてから、苦労したことや躓いたことがあると思います。その点に関して、聞かせて頂けないでしょうか?

山下:そうですね…。自分は、電話応対、対応が苦手でしたね(笑)でも、苦手だからやらないという訳には行かないので、とにかく売り込みの営業電話をたくさん掛けましたね(笑)それと、施工者さんから掛かってきた電話の対応するのが苦労しました。その時、思ったのは具体的に自分の想いを伝えること、施工者さんの想いを代わりに自分が業者に伝えるのが苦労しましたね。
現場経験も少なかったので、現場に行っても、専門家の方たちと話をするのも大変でしたね。それに、大学で学んだことよりも専門性が高い知識を求められることが多くありました。改めて、学ぶにしても、どこから手を付ければ良いのか分からなかったこともありましたね。また、建築現場の経験を積むために現場監督として、いろんな現場に派遣されたのですが、馬が合う現場もあれば合わない現場もあったことが苦労しました。
あと働く時間が長くて、残業はサービスでしたね。今でいうブラック企業(笑)

中島:耳が痛いです(笑)


『リーマンショックの・地域おこし協力隊。そして新たな拠点地・氷見市へ』

中島:各方面からの電話対応、営業電話。専門性、経験値を高めるために、現場監督等をされて、そこで得たものを教えてください。
山下:そうですね。色んな建築物を見ることも出来たし、作業や内装の仕組みも見ることが出来たので、『建築』に対しての視野や経験を拡げることが出来ましたね。それに、お金のことになるのですが、値引き交渉も絶えず行っていたので、その点に関していえば、学生の頃よりもお金に対しての交渉術は上がったと思います(笑)

中島:機会があれば、値段の交渉術や『建築』の設計や内装の仕組み等を教えて頂けたらと思います!
山下:良いですよ。ただ、その会社はあまり長く勤めてはいなかったので、お教えすることは…少ないかもしれませんけど(笑)とにかく、その会社では色んな部署や現場に回されましたね。あとリーマンショックが起きてからは、本当に辛いものがありました。でも、それがあったからこそ、地域おこし協力隊にも出会えたし、氷見市に来て「#ヒラク」を立ち上げることが出来たと思います。

中島:そのことに関して、具体的に聞かせてください!
山下:リーマンショックが起きてから、極端に建築物件が減ったので、収益が上がらなくなりました…。つまり、会社の儲けが減ったってことですよね。それと、投資用物件を自社で建てて売って、運営もしていましたけど、時代の流れと共に衰退していく様を見ていましたね。リーマンショックが起こる前に勤めていた人は、恩恵があったんですけども、僕はなかったかな(苦笑)

中島:経済のタイミング次第で、天国と地獄を見るってことですね…。
山下:そうですね(笑)

中島:リーマンショックが起きてから、働き方の変化はありましたか?
山下:先ほども言ったように、この会社では『建築』以外の仕事も行っていました。その中には「ホテル」の運営管理業務もあり、リーマンショックが起きてからしばらくして、自分は、その部門に回されました。今になって思うのですが、この部門に回されて初めて富山に来ました。もしも、この部門に回されていなかったら、富山には来ていないかもしれませんね(笑)
中島:何かの縁を感じますね(笑)
山下:そうですね(笑)
中島:そのホテルでの業務は、どういったものでしたか?
山下:住み込みで、色んなことをやっていましたね。受付や清掃作業をしていました。仕事よりも、住み込みでしていると、窮屈というか、気持ちが滅入ることや塞ぎ込んでしまうことがありましたね。それに、知らない土地というとこもあり、人と繋がりがなかったので、本当に、気持ちの面で折れそうになりましたね。

中島:その気持ちが折れそうなることや、滅入ることもあった中で、楽しみにしていたこと、あるいは、前に向かって行動したことはありますか?
山下:そうですね…。今だと当たり前ですが、SNS(Facebook等)を通じて、イベントや活動情報を得て、富山の人たちと朝活やイベントがあれば参加をしていましたね。そこで、知り合った人たちと親交を深めていくことによって、新たな繋がりが出来たことで、その気持ちの面で、滅入ることとかが減りましたね。あと、色んなとこへ出歩くようになってから『自分がやりたいことをやりたい』という強い気持ちが芽生えました。

中島:『自分がやりたいことをやりたい』具体的に、教えて頂けますか?
山下:友人が主催したイベントに行った時に、DIYに魅力的に感じたんですよね。富山に来て思ったことなのですが、富山は木造住宅、建築が多くあったことに驚きました。以前までは、コンクリート建築に携わることや、見てきたものがコンクリートで建てられているものが多かったので、改めて木造住宅や建築の魅力があるなと感じました。例えば、既存の木造建築物に、DIYをすることによって何かを加える。手直しをする。そのことによって、その木造建築物に新しい価値が生まれる、付けることが出来るよなぁとも思いました。また、DIYを通して、実験的なものを創りだしたいなという気持ちも芽生えてきましたね。
そこから、時間があれば、DIYのイベントに積極的に参加しましたね。それこそ、自分がやりたいことをやるために参加していた気がします。あと、DIYのイベントを通して『地域おこし協力隊』というものを知りました。


『地域おこし協力隊を通して』

※写真は『#ヒラク』(氷見市中央町商店街にあるコミュニティスペース)です。『#ヒラク』が、どんな雰囲気なのか、読んでいる方にも感じてほしいと思いました。

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中島:DIYのイベントで『地域おこし協力隊』を知ったと仰いましたが、もう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。また、その活動についても教えて頂けないでしょうか?

山下:地域おこし協力隊を知ったのは、友人が和歌山の熊野でDIYのイベントを開催した時ですね。和歌山の熊野にある熊野神社付近に友人が古民家を購入したんです。その購入した家が、台風や年経年劣化によって床が腐蝕していたので、床の張替え等のイベントに参加した時に、自分以外の参加者で、地域おこし協力隊の方が参加していたんです。そこで、地域おこし協力隊というのを知りました。当時の僕は、地域おこし協力隊は、農業や漁業といった一次産業の担い手不足を解消するために政策だと思っていましたが、地域おこし協力隊は担い手になることじゃなくて、その地域の活性化や資源を使って新たな試みを行う目的として活動していることを知ったんです。

中島:そうだったのですね。僕は『地域おこし協力隊』は、その名前だけを聞いたことはあるのですが、どんな目的や行動で活動しているのか分からなかったので、教えて頂きありがとうございます。ちなみ、中央町商店街にある「ヒラク」(富山県氷見市の中央町商店街に使用しなくなった空き店舗をリノベーションし、コミュニティスペース)も、その活動一環で創られたものなのですか?
山下:そうですね。自分が『地域おこし協力隊』と着任した時に創りましたね。
中島:健太郎さんの今までの経験や知識が活かされたとこですね
山下:そうですね(笑)あと、着任した時に時に感じことなのですが、誰でも集まる場所、コミュニティスペースがあれば良いなと思いましたね。あと、何かを創り上げていくのは楽しかったですね(笑)


中島:今「氷見市」では『地域おこし協力隊』の活動は活発的だと個人的に感じています。健太郎さんが『地域おこし協力隊』として『氷見市』に着任した時のことを教えてください。

山下:自分は「氷見市」が初めて『地域おこし協力隊』の募集をしていた時に採用されました。つまり、自分が氷見市においての『地域おこし協力隊の一期生』になります(笑)その時に受講者は、100人を超えていたと思います(笑)

中島:100人以上ですか(笑)そんな大人数が受けに来ていたのですか。初耳です(笑)

山下:(笑)その狭き門を、何とかくぐり抜けて、採用された時は嬉しかったですね。その当時、採用されたのは6名で任期は3年間でした。
協力隊の基本的な柱は漁業 農業 移住の三本柱でした。採用された時ですが、当時の市長に言われたことだったと思うのですが、農業は、六次産業化、ブランド化を意識して取り組んで欲しいと言われたのと漁業に関しては新たなビジネス価値を生み出すことと、映像による可視化するためには、どうしたら良いのかと知恵を絞って欲しいと言われたような気がします。移住は氷見市の未来を見据えたもので、移住したくなるような地域にして欲しい。と熱い想いを話されていたと思います。当時の氷見の地域おこし協力隊は「ビジネス」の視点で活動をしていた気がしますね。他では、地方と都心部を繋ぐことや、定着させる感じで活動していたような気がします。
また、当時は大きな組織もなく後ろ盾も少なかったですね(笑)毎日、自分たちが考えて行動をする日々でしたね。あと、市政が大きく変化し窮地に立たされましたね(笑)

中島:政局によって、物事が不安定になることは嫌なことですよね。それでも、考えて行動をすることで、その不安定な局面でも、柔軟に対応出来たと思います。
山下:ありがとうございます。こういった経験は中々出来ないので、今では貴重な経験です。

中島:任期3年という時間で、得たことや思い出に残っていることを教えてください。

山下:そうですね。自分は『移住』について、活動していたので、空き家を探して、移住者に空き家を提供することや、移住希望者の相談に乗っていましたね。また、協力隊での行動で使える予算は限られていました。限られた予算の中で考えて、計画を立てることが必須でしたね。『ヒラク』は、自分だけではなく協力しあった仲間の資金を使いながら、色んな人からもらった物を活かして創り上げました。ただ、空き店舗をリノベーションしたのではなく、そこに、いろんな表現、手法を組み合わせましたね。また、他者がやっていないこと、地元でやっていないことを創る時は、出来るだけ時間もお金も無駄にしたくない気持ちと、工夫次第で良いものが出来ることも知りましたね。

中島:そう思うと『地域おこし協力隊』での活動は、健太郎さんの経験が活かされていたのではないかと思います。活動費が決められているということに関して言えば、学生の頃にやっていた寮生活の運営経験。建築業務、ホテル管理の仕事をしていた時にも、お金を工面することや運用することを学んだと思います。それに、中高大と創作に携わったことで、表現することの楽しさや面白さを知っている。それに加えて「建築」の知識がある。その掛け合わせたものが「ヒラク」という形で表現されていると感じます。また「氷見」に「新しく集う場所、語らいが出来る場でもあり、イベントが開催出来る場所」が出来たことは、地元民の若者としては嬉しいことです。ありがとうございます!

山下:いやいや。こちらこそ、ありがとうございます。自分も、そう言ってもらえると嬉しいです。


『任期を終えてから』

中島:健太郎さんは『地域おこし協力隊』を終えてから「氷見」に残られましたが、今の生活は、どのような生活を過ごされているのですか?
山下:今、氷見市の灘浦地区の薮田に住んでいます。海沿いのとこですね。その地区に空き家があったので、購入して住んでいます。空いている時間を使ってですがDIYをしています(笑)将来的には、今自分が住んでいる家をリノベーションして、民泊が出来るようにして、氷見の魅力も感じてもらいたいですけども、DIYの魅力も感じて欲しいと思っています!

中島:完成したら見てみたいです!
山下:ありがとうございます。今日明日するものではないので、気長にお待ちください(笑)
中島:分かりました!
山下:(笑)

中島:また、お仕事の方は『地域おこし協力隊』に通ずる仕事に就かれたのですか?
山下:通ずるとこもあると思います(笑)今は、とくし丸という移動販売スーパーの販売店員をしています。移動スーパーなので、食材販売をメインにやっているのですが、やはり地域の方と交流することやコミュニケーションを取ることが重要ですね。つまり、営業をしなければいけないということです(笑)以前の営業活動よりも、こっちの営業活動の方が良いですね。

中島:移動スーパーということは、氷見市全域を回っているのですか?
山下:熊無方面。灘浦方面。島尾方面と氷見の西、北、南方面で活動しています(笑)
中島:見かけたら、声掛けしますね(笑)
山下:ありがとうございます。でも、声掛けだけではなく買い物もして行ってくださいね(笑)
中島:分かりました(笑)

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