見出し画像

旅の記憶①バリ島ウブドと孤児院

私の人生で長期滞在したのはニューヨークとバリ島です。
今回はバリ島でのボランティア、孤児院の状況についてお話します。
バリ島でのボランティアに興味ある方に、事前知識として読んでいただけると幸いです。
※10年近く前のお話なので、現在は状況が異なる可能性もございます。ご参考までに。


ボランティアの経緯

当時、新卒で入社した会社を退職することになり、有休消化中に何か新しいことにトライしたいと考え、旅行でよく行っていたバリ島でボランティアをすることにしました。
特にボランティア精神に溢れていたわけではないのですが、当時3.11の数年後でボランティアに関するニュースをよくテレビで見かけたんです。
「自分の想像以上に世の中にはボランティアに行く人がいるんだ」とびっくりした経験から、完全な興味本位で1か月の孤児院ボランティアを申し込みました。

孤児院ボランティアの実態

私は孤児院ボランティアコースで旅行会社に申し込みをしたため、希望した日に送迎をしてもらい定期的にボランティアに参加することになります。
これは私が申し込んだ会社側の都合かもしれないのですが・・・特にカリキュラムもスケジュールも決まっておらず、何ならいつ行くのかも決まっていませんでした。これが一番大変だった。
なぜなら、何をしたいのか、何を提供できるのか、を自分で考えなければならず、漠然と「ボランティアしてみたい」という状況の私にとってはかなり高いハードルだったからです

孤児院は毎回同じところに行きました。
孤児院ということだったのですが、実際は家が貧しく学校に行けなくて平日は孤児院に来ている、週末に帰宅するという子も多くいました。
つまり学校や託児所の代わりにしている子が多く親がいない子の方が少ない、ということです。
携帯電話を持っている子もいるし、中学生・高校生くらいの女の子はお化粧もばっちりしている。
高校生は日中近くの学校に通学している子もいました。
孤児院が終わった後に習い事に行っている子がいて、私の考えていた孤児院とは全然違う状況でした。
勉強もあまりせず、遊んでいる時間が多かった印象です。
唯一、外国人の旅行客グループが来たときだけは伝統的な音楽や踊りを披露し、お行儀も良かったです。
観光客グループはアメリカ人やオーストラリア人が多く、子供たちの音楽や踊りを見たら寄付と大量の食糧を置いて帰っていく光景が衝撃でした。
食糧もインスタントやチョコレート、炭酸飲料などが多く段ボールで積みあがっていて、成長期の子供たちにはきちんと温かいごはんを食べてほしい・・と切実に思った記憶です。


孤児院を運営しているのは女性でした。
彼女とも何度か会話しましたが、子供たちを統率する人がほぼおらず、日本などから来るボランティアにサポートを頼って運営しているようで、中々大変そうでした。
子供の人数も日によって変わりますが、40人くらいはいたかな?赤ちゃん~高校生までいるので、その日いる大人や上級生が下の子を見るような状況でした。
私は高校生の女の子たちとおしゃべりすることが多く、彼女たちが将来どうするか悩みつつ、でも自分たちの将来を金銭面で諦めていることが印象に残っています。

孤児院自体は開放的で環境は悪くなかったかな

日本からの来訪者

私が滞在中、他にも日本人の方が数名いらっしゃいました。
ほとんどが年配の方で、教員を定年退職後に勉強を教えたくて来た方、奥様を亡くされて第二の人生で誰かのためになるならと来た方などがいらっしゃいました。移住してきた方もいました。
皆さん最初は意気込んでくるのですが、数日経つと実状を理解して少しアプローチを変えたり、日数減らしたり、訪問時間を変えたり、孤児院に泊まってみたり、と試行錯誤してボランティアを継続していた印象です。
私自身は訪問時間を午前中に設定し、子供たちに日本語の挨拶などを教えました。日本人がボランティアに来ることが多いと聞いたからです。
午後はみんなだらだらテレビを見たりして集中力がない子が多かったです。
歌を歌ったり鬼ごっこしたり、自分が思ったのと少し違ったけれど、全体的には楽しかったです。

日本語はそこそこ書かれてました

ボランティアを思い返して

当時、日本に帰国後は友人に会うたびに「全然思ったのと違ったよ!」と言っていました。孤児院は日本のテレビで見るように、規律のある集団生活を送っており、その中でボランティアカリキュラムが存在すると思い込んでいたのです。
自分自身に子供が2人できた今は、もう少し事前にきちんと準備していたら、あの子たちに更にできたことがあったのではないか、という後悔があります
自分がだれかの人生に大きく影響を与えられるとは考えていないのですが、せめて2,3日一緒に泊まって高校生の女の子たちともっと日本やバリの流行についてや恋バナなど女子トークができたのでないか。
生まれたての子をもっと抱っこして、その子の面倒を見ていた上の子を他の子と精いっぱい遊ばせてあげることができたのではないか。
今ならまた違うアプローチができただろうに、今の私は身軽ではなく。
もし、私の子供たちが成長して「ママもう一回行ってきなよ」と言ってくれるなら、今度はもっとお金と時間をかけて準備して、子供たちに寄り添ったボランティアがしたい、と今は考えています。

この男の子とお隣の女の子はめちゃくちゃ懐いてくれて、たくさん写真撮りました。元気にしてるかなぁ

ホームスティ(余談)

バリ島でホームスティと言ったら誰かの家に泊まる、というより家族経営の安宿に泊まることが多いです。(本当に家に泊まることももちろんある)
私は、ウブドの中心部モンキーフォレスト通りの一番いい位置にあった今はもう無くなってしまったCanderi Restaurantという老舗レストランの2階に住んでいました。
ここはレストラン・マッサージ・ショップ・ホテルを一緒に経営しており、
ウブド市場のすぐ隣という好立地の素敵なホテルでした。
今はもう無いようなのですが、昔ながらのバリ島伝統料理が食べられる貴重なレストランが一つ無くなった・・・という喪失感でいっぱいです。
当時はおばあちゃん(大奥様)が仕切っており、バックパッカーの日本人から日本語を習っていたようで、カタコトの日本語で「momoyおはよう。げんき?」と毎日声をかけてくださいました。家族みんな優しく、伝統衣装を着てお祭りに参加させてもらったり、かなり良くしていただきました。
また引っ切り無しに日本人含めた外国人の一人者が泊まるので、毎日レストランの一角でお酒を飲みながらいろんな言語でやり取りをし、貴重な経験をしました。
今のウブドは最新の観光地のように変わってしまいましたが、私にとっては今でもCanderiで過ごした日々は宝物の記憶です。

いつも美味しいご飯を出してくれました。おばあちゃんと次男坊(当時10歳くらい)と一緒に会話しながら食べるご飯は今でも時々思い出します。
Canderiから見える景色も好きでした。外国人が座ってると外国人が寄ってくるんだよ。今はもうない景色


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?