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猫カフェ雑感

 これまでの人生の中で、4軒の猫カフェに
行きました。一言で猫カフェと言っても、そのお店の形態は様々でした。
 小さな一軒家を改装したもの、駅ビルの高層階にあるもの、海辺に大きな飲食店を併設しているもの、住宅街のマンション。
 お店の中に入ってみると、また様々です。
 店主がつきっきりで客に猫について熱心に説いてくれるタイプや、揃いのエプロン姿で名札を下げたスタッフがさりげなく巡回しているタイプ、夫婦で経営していて裏方に徹しており、極力客には声をかけないタイプ、さらに、一見客と区別がつかないような外見をしたボランティアの猫仲間でもてなしてくれるタイプなどの接客がありました。カフェですから、街の喫茶店やスタバ、隠れ家古民家カフェ、キッチンカーの違いみたいなものでしょうか。
 全てに共通しているのは、お店の猫はすべて見た目や気性は違うけれど、中身はもちろん、概ね人慣れしているマイペースな猫たちということでした。それぞれに住む環境に適応して、じゃらしで遊んだり、オヤツを貰ったり、爪を研いだり、写真を撮られたり、たまに喧嘩しながらも、のんびりと暮らしています。彼らにとっては、大勢の仲間と日々いろいろな人間をみながら暮らす、それが日常ということです。
 猫カフェに行くと、自身の育つ環境で生活はつくられることを目の当たりにします。そこしか知らないと、そこが普通だと思ってしまいがちですが、ところ変わればなんとやら、様々な正解のない暮らしがあるものです。家、地域、学校、職場や国家、ひいてはこの地球、宇宙の環境でわたしたちは飼い慣らされています。
 何不自由ない、環境の整えられた店内にいる窓辺から、外をみている猫を観ると、なんだかせつない気持ちになります。かわいそうとか、憐れみとはまた少し違うのですが。運命というのか、生まれた場所は良くも悪くも選べないものだということをわかりやすく体現していて、まるで、昔の貴族の生活をみているような感覚です。
 保護猫カフェも増えましたし、野良猫とか飼い猫以外にも、地域猫とか仕事猫とか夜廻り猫とか。猫と言っても昔より呼び名が増えました。猫も多様になったもので、愛されている生き物の代表格なのでしょう。
 このややこしくてコスパやタイパ重視の時代に、あれこれ気をつかいながら人間とアポをとりお出かけするよりも、家で猫と寛いでいたい、という気持ちもわからなくもないです。忙しない生活に多くのひとがほとほと疲れているのかもしれません。自分もそのひとりか。
 あと、今日は憲法記念日でした。長い歴史を経て法がつくられ、自由があります。そのことはけして当たり前ではないのだと、ドリンク無料券を財布にしまいつつ、のどかな猫たちの写真を見返しながら、あらためて思う休日なのでした。猫たちも幸せに暮らせる国であってほしいです。