受信情報と個人的”らしさ”の距離
今の状況は、直接仕事に響いている。
パーソナルイシューというより世界中で。もちろん悪い方向で。
自分をその方向から反作用させて、日常状態の均衡を保つために、心の秤にポジティブニュースを乗せる。なんとか自分を象っているモチベーションが下がらないように。そんな溢れた情報をなぞって行く日々。
自分の行き着きたい事実を探し、ただただ自分を保つor下げないように手を伸ばした情報の先でいつの間にか情報マニアになりその情報の一員となる時、自分の無為闊達さが薄らいで周りと一体となり重くなっていることに気づく。「この情報って、自分が持ち続けて楽しくなる?目の前だけを正当化したいのでは??」と。
もともと自分が求めていたい心の居所って何だっけ?
自分”らしさ”をどこかの瞬間で落ち着かせておきたいんだけど、行き着く先は自分を象っている存在を留め置く居所ではなかった。本来存在しているはずの”らしさ”が最大公約数の情報と無意識で一体化し始めたとき、行き着く自分の感情がその一部に変化する。その空気感が”大義”になると他にも同時期に存在していたはずの情報が寸断され、無力化もしくは否定の対象へと様変わりする。その様変わりは決して悪いことではないけれど、情報受動側がそれ以外のオプションを非存在的で排他的にしかも、無意識にしてしまう行為は何よりも自分が求めているところではない。
情報を”受け取る & 発信する”の2つの行為は常に行われているのだけれど、ネガティブワードが猛烈なこの数週間、”大義”へ為る事がもしかしたら、有用だったかもしれない賢明なマイノリティオプションを無意識に無視してしまう事も想定しておかなくては。
だから、
情報に触れて合う前の自己儀礼として、自身の内面に確かに存在していた無為な象りを意識して、絶えず身軽にシンプルな佇まいにしていたいなぁと思うのである。
それって、そもそも論でポジティブもネガティブも無く、すべてに於いてニュートラルで在るが儘でいることなのかもしれないけど、、。
なかなか、、、ねぇ、、。
どうやら欲深き自己がまだ続く様。