「願立剣術物語」を読んでみた。
原文
面向かいという事。
敵を氷らしめ向かうにあらず。
氷るは一物備るなり。
我が心の向かう処、能々取り請ける事肝要なり。
玉心ならばいずれか我に向かずところあらんや。
玉は十方に放れ十方に能く観通し、万方明らかにせしめ一つも泥むことなし。しかも内清く留まる処なし。
かく面向かいといえば、敵、先ず立ち、味方のあととなりしからば、敵の色に付くに似たり。
此の処まぎらわしく心得がたし。
月の光指入りたる戸をあくる者あり。
何を先とし何を後とせんや。
心の玉、十方へ通りたるは月の光、十方に行き渡りたるなり。
戸をあくればすなわち面向かい、いずれか前後なるべけんや。
解釈
面向かいということ。
敵の正面に立って向かい合うことではない。
向かい合えば、角が生じてしまう。
我が心の向かう場所はよくよく注意しなければならない。
玉の様に動く私にとって、相手のいづれかも向き合わないということはない。
玉はあらゆる場所に放たれて、自分と相手のあらゆる角度を明確に認識し、迷うことなく、力むこともない。
このように面向かいというのは、敵が構え、その前に自分が立つというのではない。それでは敵の動きに執着してしまう。
ここのところがまぎらわしくわかりにくいところだ。
戸を開けたら月の光が入ってきたとしよう。
その月光が入ってくるのと、戸を開けるのは、どっちが先でどっちが後だというのか?
心が玉のように全方位に動くのは、月光が全方位に光を届けるのに似ている。
戸を開ければ、敵に向かって立つのか、私が先に向かうのか、どっちが先ということはない。
コメント
敵の正面がこちらの正面と思ったら、それはもう居ついている。
こちらは玉のようにころがるのみ。
常に私の正面が敵の正面である必要はない。
私の正面は私だけのもので、敵の正面とは関係ない。
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