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私の歴史~~武術に憑りつかれた男3

そんなわけで、部活のほうでは、ひたすら体力の限界を超えるためにやっていた。
しかし、そのころ授業の扱いとしてクラブ活動というものがあった。
部活は毎日だが、クラブ活動は一週間に一回あった。

私は、柔道クラブに入った。

本当は部活で柔道をやりたかったが、危ないからということで親の反対にあったが、せめてクラブでやらせてほしいと懇願してなんとか許可をもらった。
私としては、バスケには興味はないが、柔道に興味深々だったので、毎週楽しみにしていた。

小学生のころテレビで「柔道一直線」という番組があって、地獄車という技にあこがれていて、いつかは
自分も使えるようになりたいと思っていた。

柔道クラブの顧問の先生は英語の先生だ。
帯は赤いものをしていた。
黒帯よりもさらに上の高段者だ。
型を中心に教えてもらった。
紳士的で、芯が一本とおっているような性格の先生だった。

講道館柔道の形は創始者嘉納治五郎先生が、古流柔術天心真陽流柔術と起倒流柔術から考案したもので、私の感想としては、なんだかロボットのような動きだなあと思った。
例によって柔道のルーツを探ってみたくなった。
これは、自分の性分なんだと思う。

日本の柔術流派は数多く、様々な技を伝えている。
江戸時代から幕末~明治にかけて達人も多く、信じられないような技を発揮したという。
しかし、講道館柔道を嘉納先生が創始すると、柔道界と柔術界は対立し、結局柔道に負けた柔術は衰退していった。

子供の見る漫画でも、柔道対柔術の対決場面があって、たいがい柔術家は悪者で柔道家は正義の味方として描かれていた。

その代表が、黒澤映画にもなった「姿 三四郎」である。
講道館創始時代の話で、主人公の姿 三四郎は弘道館(小説の中ではこう書かれている)の四天王の一人で、柔道普及のため柔術家達と試合をし、得意技の「山嵐」でばったばったと投げ倒していく物語である。

当時は熱中して読んだ。
しかし、これもこの小説のルーツを知りたくなり、本当の話なのかどうか確かめたくなった。
すると小説の中の姿 三四郎にはモデルがいて私と同じ新潟県出身の人物だということがわかった。

その人の名前は志田四郎。
新潟県津南市の出身だ。
会津藩家老の西郷頼母の養子となり、名前は西郷四郎となった。
西郷四郎は上京して講道館柔道に入門し、実際に得意技「山嵐」を使って柔術家達とも試合をした記録が残っている。

学校の図書館で柔道の技の解説書を読んだが、その本には「山嵐」の解説がしてあった。
相手の同側の襟と袖をとり、相手を腰に担いで投げる。
そのときに方足裏を相手の足甲に貼りつかせそのまま払いあげると同時に投げ落とす。
その本の解説にはこう書いてあった。
この技は、実際には西郷四郎しか使えなかった。
創始者嘉納治五郎は、「西郷の前に西郷なし。西郷のあとに西郷なし」と言って、「山嵐」は西郷以外にはできなかったと述べていたそうだ。
「この技は、西郷の足があいての足にタコの吸盤のように貼りつくことができたので、他の人が真似できるものではない」とも言っていたそうだ。

実際、私もやってみたが、全然できなかった。
稽古してもできる可能性すらないと思った。

なぜ、西郷がこの技を知っていたのか?
嘉納師範でさえ、「西郷以外にはできない」と言っていたわけでから、嘉納師範が教えるはずがない。
はたして西郷四郎、どこからこの技ひっぱってきたのだろう?
そこで考えられるのが、四郎が会津藩家老の養子だったことが関係するのではないかということ。
会津には「お式内」と呼ばれる武術が伝承されている。
城内では、刀を抜くことが禁じられてるため、不届き者を捉える技術が必要だ。
それが「お式内」。

会津藩の家老西郷頼母は、この「お式内」の伝承者だったという人もいる。
その養子の四郎ならば、当然「お式内」は養父から学んでいたにちがいない。
「山嵐」は、その「お式内」の中の技なのかもしれない。

この「お式内」は大東流合気柔術のルーツで、大東流は合気道のルーツ。
現代においても大東流は伝承されているが、講道館柔道の技である「山嵐」らしきものは存在していない。ただ、「山嵐」という技は存在していて、その技と西郷四郎の技が同じとは考えにくいようだ。
なぞは謎を呼ぶ西郷四郎と「山嵐」。
柔道のこと柔術のこと。
あまりに面白くてのめりこんでいった。

ご注意 この物語は私の過去の出来事をもとに作られたフィクションです。ご了承ください。

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