note連続小説『むかしむかしの宇宙人』第56話
学校から出ると、夕暮れが街を染めていた。目黒川を眺めながらぶらぶらと歩くわたしたちの横をダットサンが駆け抜けた。
バシャリは川のふち沿いを注意ぶかく歩いている。そうして足元に目を落としたまま口を開いた。
「どうですか、幸子。行ってよかったでしょう」
「そうね」
気もそぞろに返事をしてから、手のひらを見つめた。心地よいミシンの熱が、興奮とともに残っている。
それを逃がさないように、やさしくゆっくりと握りしめた。前に向きなおると、バシャリの背中が目に留まる。
川に落ちないように両腕を横に伸ばしたまま、水平を保っていた。いいことを思いついた。
わたしはそろそろと距離を縮め、えいとばかりにその背中をつき飛ばした。
「わっ」と叫び、バシャリは川へ落ちそうになったが、どうにか片足で体勢を立てなおし、それをまぬがれた。
安堵の息を吐いたあと、恨みがましそうにわたしを見やる。
「何をするんですか、幸子……」
くすくすとわらいながら謝った。
「ごめんなさい」
「……幸子はひどい人です」
バシャリはぶつぶつと文句を言いながら、再び川のふちを歩きはじめた。しばらく顔がにやけるのを、わたしは止められなかった。
10
「水谷」
関根課長に呼びつけられた。あの抑揚のない口調は間違いなくお説教だ。ソロバンの手を止め、「なんでしょうか」と、立ち上がると、
「ここ」関根課長はとんとんと帳簿を指さした。「間違ってるだろうが」
きちんとその間違いを確認してから、わたしは「申し訳ありません」と頭を下げた。
すぐに謝ると「きちんとたしかめろ!」と目を剥いてどなるからだ。
「うちの銀行は慈善事業か?」
課長が出しぬけに言った。
「えっ_」意味がわからずに絶句していると、
「帳簿をつけ間違う行員にも給与をやらなきゃいかんのか」
「……申し訳ありません」
課長の説教は、とにかくまわりくどい。結論にいたるまでにかなりの時間がかかるため、毎回胃が痛くなる。
「だから女に仕事は任せられないんだ。手習い気分でいられちゃ迷惑なんだよ」
課長はひとしきり文句を吐き出すと、最後に語尾を荒らげた。得意の『手習い気分でいられちゃ迷惑なんだよ』だ。
一体、何度この台詞を聞かされたかわからない。周りの同僚たちはまきぞえをくわないように注意しながら、こちらの様子をうかがっている。
地獄のような説教が終了し、ようやく釈放された。席に戻ると手で口元をおおいかくし、限界までためていた吐息をもらした。
近頃、どうも失敗続きだ。そして、その原因はわかっていた。
バシャリのせいだわ……
能天気なバシャリと接する期間が長くなるにつれ、はりつめていた気持ちが次第にゆるんでいくのが、自分でもよくわかった。
銀行の業務は、些細な失敗が命とりだ。女性行員など簡単に辞めさせられる。しっかりしなくちゃ、と気合いを入れなおし、わたしは再びソロバンを弾きはじめた。
就業時間が終わるとすぐさま銀行を飛び出た。歩幅が自然と大きくなり、財布が買いものかごから落ちそうになる。
今からワンピース作りの続きができると想像しただけで、飛びはねたい気分だった。
道の途中で大きな男性のうしろ姿が見えた。バシャリだ。腹まきに手を入れ、ぶらぶらと歩いている。わたしは気配を消しながら忍びよると、その背中に叫んだ。
「ほらっ、腹まきに手を入れて歩いたら危ないわ!」
「わっ!」
バシャリは飛び上がると即座に手を出した。声の正体がわたしだとわかると、ほっとした様子で言った。
「驚かさないでくださいよ。警察官かと思いました」
「警察官がそんな注意しないわ」
声を弾ませると、バシャリが気味悪そうにこちらを見た。
「……幸子、ずいぶんとご機嫌ですね」
「そんなことないわよ」
何だか急に気恥ずかしくなり、あたふたとすました顔を作った。
杉本学園に到着すると、校門から生徒が出てくる。この前と同じく、生徒たちはバシャリの格好にたまげていたが、一人だけ「でも、かっこいいわね」とささやくように言った。
その言葉に誘われるように、わたしもバシャリを見上げた。
まあ、普通にしてたらかっこいいんだけど……
つい、その整った横顔に目が釘付けになった。バシャリが不審そうに訊いた。
「幸子、私の顔に何かついてますか?」
一瞬で、頬が燃えるようにほてった。不覚にもバシャリに見とれるなんて。
「なっ、なんでもないわ。行きましょ」
動揺をどうにか押しころし、さっさと校舎に足を踏み入れる。この前の部屋に入ると、美加子さんが机の上に足をどんと置き、ぼんやりと雑誌を眺めていた。
「おっ、来たわね」
そしてそのまま雑誌を投げ捨てると、椅子に反動をつけ、その勢いで立ち上がった。
銀行で同じふるまいをしたら、間違いなく減棒ものだ、と呆れると同時にかすかなうらやましさも覚えた。
「じゃあこの間の続きね」との美加子さんの言葉で、洋服作りは再開された。
彼女の言うとおりにミシンをぐっと踏み込むと水玉模様が目の前を駆けぬける。以前と同様、あの世界に没頭していく。
時間が経つにつれ、指示がだんだんと細かくなる。わたしは全力でそれを追いかける。彼女の声色が次第に熱をおびはじめた。
ミシンが奏でる音に注意ぶかく耳をかたむける。それに逆らわないよう身をまかせていると、ミシンが自分の手足のように扱えた。
その感覚を味わいたくて、さらに音楽にのめり込む。
そしてーー音が止んだ。
第57話に続く
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