弟の話
こんにちは。りんたろうです。
みなさんの年末年始の予定はいかがでしょうか。
僕は実家に帰ります。僕と弟たちが帰ってくることで久々に家族全員で会うことになります。全員揃うのは2〜3年ぶりじゃないかな。
楽しみな反面、全員と仲がいいわけではないので、ちょっと面倒臭いなという気持ちもあります。今回はそんな僕の苦手な弟についてお話ししようかと思います。
まあ兄弟への不満なんてものは多かれ少なかれ多くの人が抱いていると思いますし、むしろ不満ゼロの人の方が珍しいくらいだと思うので、そんな目新しさも珍しさもない駄文ですがよかったら読んでいってください。
家族構成
僕の母は女の子が欲しかったらしい。幼少期からピアノをやっている人で、結婚する前はピアノ教室の先生をやっていた。嫁いできてからも近くの幼稚園なんかに教えに行っていたらしい。僕が小さい時は実家にあったピアノで僕が幼稚園で習った歌をよく弾いてくれていたのを覚えている。そんな母は僕ら息子たちにもピアノをやって欲しかったらしいけど、幼い僕らは戦いごっこや棒集めに夢中で、ピアノには全く興味がなかった。大人になってみると、音楽の素養というのは、人生を彩るという点においてとても優れていることが分かり、僕はよく母に「小さい時にちゃんとピアノをやっておけばよかった」と言っていた。その度に母は
「お母さんはピアノば教えようとしたけど、あんたたちがやりたくないって言っとったやんね。お母さんは娘とピアノの連弾するとが夢やったけん」
と言っていた。そう、娘と連弾をすることが母の夢だったのだ。だからと言って僕らに無理矢理ピアノを教えたり、息子だからと愛情を注がなかったり、女物の服を着せたりするような毒親ではなかったけれども。
でもやはり、娘が欲しいという気持ちは長い間あったのだろう。なんせ4人も子供を産んでいるんだから。まあその4人は全員男という結果になってしまったが。
というわけで僕の家は男4人兄弟で、僕はその一番上、長男にあたる。2歳下、6歳下の弟がおり、一番末の弟は10歳下になる。そこに父を加えて僕の家は6人家族ということになる。さらに、僕が幼い頃は以前書いた父方の祖父の兄、つまり僕の大伯父夫妻が同居していた。大伯父の方は末の弟が生まれる一年前に亡くなってしまい、大伯母もその5年後に亡くなっているため、最大7名が同居していた。
これが僕の家の簡単な家族構成だ。
次男について
次男とは幼い頃はとても仲が良かった。まあ2歳しか違わないし、ずっと一緒にいるから当然と言えば当然だけど、僕が小学校に上がるくらいまではよく2人で遊んでいた記憶がある。小学校に上がると僕にもいろんな友達が増え始め、どこか他所に遊びに行くことも多くなってきた。そのあたりからだと思う、どこにでもついてこようとする弟が鬱陶しいと感じるようになったのは。まあ、そういう感情の変化は、下の兄弟がいる人にとってはあるあるだと思うし、鬱陶しいからと言って全く遊ばないわけではなかった。決定的に嫌悪という感情を抱いたのは小学校3年の終わりがけのことだった。
ある日僕と次男は父親に連れられて自分たちの通っている小学校のグランドに来ていた。なぜこんなところに連れてこられたのか分からないまま父の後ろについていくと、そこには自分と同い年くらいの子達がグランドを走り回っていた。そこは少年ラグビーのクラブチームだったのだ。
父はスクールウォーズ世代で、高校、大学とラグビーに青春を費やし、国体の出場経験もあるというラグビーが大好きな人だった。お察しの通り、父は息子である僕らにもラグビーをさせようと、クラブチームの練習に連れて来たのだ。僕はラグビーなんて一度もやりたいと思ったことなかったというか、そもそも団体競技をやりたいと思ったことがない、むしろ絶対にやりたくないと思っていた。友達がやっているならまだしも、友達どころか知り合いすら1人もいない、やりたくもないスポーツをやらされそうになって9歳の僕はとんでもなく泣いた。小さい時はよく泣く子だった僕だが、今思い出してもその時は人生でベストスリーに入るくらい泣いた。ちょっと参加するだけやってみたら?などと言われたが、僕は地べたに座り込んで泣きじゃくりその場から動かなかった。一方、弟はそんな僕を横目に練習してみたいと言い、他の子達に混じって初めてのラグビー体験をやっていた。それも意味がわからなくて幼い僕は一層泣いた。
その夜、家に帰り夕食を食べながらその話になり、あれだけ泣いて嫌がったのだから入れられることはないだろうと思っていた僕は、その日の体験でラグビーを気に入ったらしい弟がやってみたいと言っているのを話半分で聞いていた。しかし、どうしても父は僕にもラグビーをさせたかったようで、弟がクラブチームに入るという話が決定したあとに、まだ小さい弟が1人で夕方に小学校まで通うのは危ないから兄である僕が付き添っていけ、というこじつけたような理由で僕にもクラブチームに入るように言い出した。
やってもいないのに嫌なんて言うなと父は言っていたが、父が習い事を途中で辞めさせないのを知っていた僕は、やってみて嫌だったから辞めるということができないのが分かっていたので、ここでも大号泣して嫌だと訴えた。が、結果としては父の怒号に耐えきれず最終的に首を縦に振ってしまった。これで晴れて、僕もクラブチームに通うことが決定した。
言ってしまえばこの出来事に弟に非はないのだが、9歳の僕にとっては、弟が通いたがらなければ自分が通うこともなかった、と弟に逆恨みの感情を持つには十分な出来事だった。
そんなこんなで、ラグビーを習い始めた僕だったが、通い始めてみるとなんとそのチームには僕の同級生が1人もいないことが判明した。上と下には10人以上人がいるにも関わらず僕の学年だけ僕しか居なかったのだ。確かに上と下には人はいたが、小学生にとっての1歳というのはとても大きな差のように感じるし、実際みんな同級生とつるんでいて僕が一定以上に仲良くなる隙はなかった。小学生の習い事なんて、スポーツを純粋に楽しむ以上に、同級生の友達と仲間意識が生まれることが醍醐味だというのに、同級生が1人もいない僕は、嫌いなことをそんなに仲良くもない人たちとやるという最悪な状況になってしまった。この最悪な状況は僕がラグビー部のない高校に行くまで続く。それに関してはまたいつか書くとして、とにかく、その原因を弟が作ったという意識が、頭では違うと分かっていても、どうしても芽生えてしまったのだ。
この話から察していただけるように、僕の父は大変な亭主関白気質というか、昭和の九州男児的な思考の人だった。鉄拳制裁当たり前の人だったので幼い僕はたいそう怯えていた。
この父へのご機嫌取りも僕が次男を好きになれない理由の一つだ。機嫌を取るためにわざとらしい笑顔で、甘えたような態度を取る弟は、僕にはたいそう気持ち悪く見えた。先に反抗期に入ったなんてことではなく、僕自身がそういうことができない無愛想なガキだったので、プライドなく媚びたような振る舞いをする弟が、異質というか、理解できないというかとにかく気持ち悪かった。まあ、弟にしてみれば恐ろしい父と無愛想な兄に囲まれた中で考えた穏便な過ごし方だったのかもしれないけれど。
その後、高学年になった弟は身長も伸び、小学生にして170cmに届いていた。次男ということで甘やかされた彼は好き嫌いが多く、野菜や魚を食べられないのに量は人一倍食べるので、タッパだけでなく横にもどんどん成長し、6年生の頃には端的にいうとおじさんみたいな体型になっていた。制服は成長期を許容できず、パツパツになっているのに何故か買い替えたがらないので、大変な風体を擁することになっていた。そんなことになっているくらいだから、見た目に興味がないのかと思えばそうではないらしく、小さい頃から2人目の男の子として可愛い可愛いと言われ、媚びた態度をとって来た影響かは分からないが、そのビジュアルにして自分のことを可愛い部類だと思っていたらしく、平成にありがちなファンシー雑貨をよく身につけていた。まあ自身の容貌に対する評価に僕が口出しすることではないと思うくらいの分別はあったし、本人がどう思っていようが僕には関係はないので、直接何か言ったことはないが、思春期の盛りの僕にとってはそれがとても不快であまり喋りたくないと感じるようになっていた。
その後の確執
そして時はすぎ、高校入学。僕は家から一番近くて、ラグビー部もない高校へ進学し、部活には入らず(一応生物部に籍はあったけど何をしてる部活だったのかはよくわからない)、放課後ライフを満喫し、三年生を迎えた。僕の高校は県内で1番か2番くらいに頭が悪かったので、中学の模試でオール10点以下を取るくらい勉強のできない弟も同じ高校に来るんじゃないかと一瞬ひやっとしたが、彼はラグビー推薦で別の高校へ行ったため、その心配は杞憂に終わった。
こうして、高校でもラグビーを続けていた弟だったが、彼はとにかくメンタルが弱く、高2の春頃から不登校気味になっていた。そんな彼をみて母は気を揉み、ほぼ毎朝車で弟を送迎するようになった。ただでさえ平日の午後はそこそこの強豪だったその部の、運動後すぐに何か食べるという方針のために料理に駆り出されていたというのに。
僕はその頃には大学に進学して家を出ていたのでその過程は知らなかったのだが、帰省した時にその実態を目の当たりにした。母は毎朝弟が自転車で通学しても間に合う時間に弟を起こしていて、その時間には朝食や弁当も出来上がっていた。なのに弟は30分以上起きてこず、みかねた僕が起こしに行くと、分かったからうるさいと言って布団を被ってしまった。その後ようやく起きて台所に出て来た弟は、遅刻しそうな時間に少しは焦っているかと思いきや、優雅に茶碗を出してご飯をよそい、朝ごはんを食べ始めたのだ。そして当たり前のように母の送迎で登校していった。
あまりの怠惰さに、その夜僕はたまらず指摘したのだが、弟は悪びれる様子もなく
「部活してる人の大変さは兄ちゃんにわからんやろ。
高校までの距離も兄ちゃんの高校の倍以上あるし通うの大変やもん。
夜遅くまで部活したことない人にはなんもわからんよ。」
と言って来た。
僕はもう怒りとかを通り越して呆れ果てた。そもそも僕はそういう部活のあれこれが嫌だから部活に入らずに勉強することを選んで、県模試でも上位者として掲載されるくらいには頑張っていたし、弟がメンタルが弱いのは中学でわかっていたのに、自身でわざわざ選んでそこに入っているわけだし、そもそもそんなに嫌ならさっさと部活辞めて、僕と同じように勉強だけで大学でもどこでも好きなとこに行けばいいじゃないか。
なんてことが一気に頭の中に浮かんできたけれどそれを全部言っても彼は何も理解しないんだろう、だって今は自分が1番辛いと思っているんだから。そんなことを考えると何かを言うのも虚しくなって「そっか」とだけ返して僕は諦めた。それが恐らく弟とした最後のまともな会話だと思う。
結局は僕が何を言ったって僕が何か直接被害を被ってる訳ではないし、1番苦労している両親、引いては母がそれでいいと言っているなら僕が何か口を挟むのはお門違いというものだ。
ただ、そういう道理とかを抜きにして、ただ僕の気持ちについてだけを言っていいのなら、僕はほんの少しだけ寂しかった。僕はどれだけ遅刻しそうでも、台風が近づいていても毎日チャリで通学していて、母が僕を送迎してくれたことは高校の3年間で片手の指で数えれる回数だし、高3の時に市立図書館で毎日21時まで受験勉強していた時も両親から心配されたことは一度もなかった。それは僕なら大丈夫だと、長男だからと、信頼してくれているからなのかもしれない。でも、弟との扱いの差をこんなに目の前で見せられると流石に一息子としては寂しさを感じてしまう。
と、こんな感じで僕は次男の性格や人間性だったり、両親からの扱いの差、そういったものを折りに触れて感じて来た。今回は割愛するが、これ以降にも弟の両親への怠惰な振る舞いは度々起こっている。弟には弟の考え方だったりビジョンがあるのかもしれないが、やっぱり僕はどうしても好きになれない。いや、訂正する。彼がそんなに色々考えているとは到底思えない。
とにかく、そんな感情を20数年抱き続けていたら、まともに喋らなくなるのは然もありなん、といったところだ。まあ人間関係なんてものはとても簡単に如何様にも変わってしまうものだし、これから次男とめちゃくちゃ仲良くなる未来が訪れる可能性がゼロであるとは言えないが、少なくとも現時点で弟に僕から何かいうことはないだろう。
長々とほぼほぼ弟への愚痴のような駄文を読んでいただいてありがとうございます。負の感情を言語化するのもスッキリしていいですね。
ちなみに他の兄弟とは仲良いです。
それでは皆さん良いお年を。
ばいちゃ