エドヴァルド・ムンク〜密室に銃声は鳴り響く〜
指定された教会は石畳の入り組んだ路地の行き止まりにあった。民家の裏手にあり、ひっくり返ったゴミ箱から散乱した生ゴミが道を塞いでいた。それを踏まぬよう、つま先でそっと歩く。それでも避け損ねた玉ねぎが、革靴の木のソール越しにぬちゃ、と柔らかな感触を伝えてくる。
長年、コペンハーゲンに暮らしていたが、こんなところに教会があるとは知らなかった。
木の扉の取っ手を引くと、意外にも軽く開いた。
扉を開けた瞬間、逃れる場所を探していたように、中からの冷気に包まれた。5月の光に慣れた目に、室内は暗くよく見えなかった。
「こんなところにお呼びたてしてすまない」
少しかすれた、男性にしては高い声が聞こえた。
「いえ、来る時に玉ねぎを踏んでしまいましたよ」
まだ姿は見えなかったが、私は声の主に応えた。
扉が閉まると、高い位置に設置された窓から差し込む光で、室内の様子がわかってきた。
男は、入り口から1番奥、祭壇に近い場所の長椅子に座り、振り向くようにこちらを見ていた。
黒のジャケットに白いシャツ、胸元に黒の蝶ネクタイ。催事にでも向かうような格好だったが、これが彼の正装であり、普段着でもあるのだろう。
そばへ行き、私はインタビューを受けてくれたことへの礼を述べた。
「今日は、宜しくお願いします」
そう言って手を差し出すと、男は黒革の手袋をはめ、座ったまま軽く私の指をつまんで揺らした。
「玉ねぎを踏んだかね。あのゴミ箱は来る時、私が蹴り飛ばしたんだよ、アッハ!」
楽しそうに男は笑った。
こんなふうにして、46歳のエドヴァルド・ムンクへのインタビューは始まった。
彼はアルコール依存症の治療の為の、精神病院から退院したばかりだった。
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私が隣りへ腰をおろすと、彼は私をサッと一瞥し、やや距離を取るように座る位置をずらした。
「君、靴はどちらから履く?」
「えー…右ですね」
それを聞いて頷くと彼は言った。
「亡くなったヨハンネはいつも左から履いていた」
「早くに亡くなられたお姉さまですね。随分可愛がられたとか?」
「あぁ、僕は母も早くに亡くしてるからね、母親代わりだった。もっとも、そのヨハンネも15で亡くなってしまった。死神に、魅入られていたんだ」
「……」
「君がもし左から履くのなら、一言忠告しとこうと思ったんだ」
「道に落ちてる玉ねぎには気をつけろ、と?」
フッ、とムンクは面白くもなさそうに笑った。
ムンクは、手袋を外すと、その指先を何度か伸ばしてまたはめ、すぐにまた外して、手のひらへパシリと打ちつけた。
「病院での生活はいかがでしたか?」
「水がね、苦くて良くない。ドイツの水はダメだ。おかげでワインばっかり飲んでた」
「……アルコール依存の、治療に行かれたのですよね?」
「そうだが?」
「……」
「もう症状はすっかり収まったと?」
「だからこうして退院してる」
ムンクは再び手袋をはめ、早口で答えた。
その様子を眺めながら私は考えていた。
どうも、調子が狂う、狂わされている。
こういう相手に、焦りは禁物だ。
「水が合いませんでしたか。ではノルウェーに戻るつもりですか?」
ムンクは手袋から私へ視線を戻した。
「そうだな…ノルウェーに戻るよ。少し落ち着いて田舎で絵を描いてもいい」
「この間の個展ではノルウェー国立美術館があなたの油絵5点を買い上げました。国内での評価も高まってきましたね」
「ハンッ。あいつらに絵のことなどわかるはずない」
「……嬉しくないと?」
「ただのやっかみさ。聞き流してくれ。なんせ僕はノルウェーじゃ評価されなかったからね。そのせいで随分苦労した。もちろん、遠回りは全部、無駄ではなかったがね。いや、無駄もあったな、まぁいい」
「20代の頃からあなたの作品は賛否両論ありました。ベルリンでの個展が1週間で打ち切りになった『ムンク事件』※1なんてものもありました」
「よく覚えてる。20代最後の個展だ。あの個展は気合いが入ってた。僕が取り組んできた『生命のフリーズ』※2の初披露だったからね。それがあの始末さ」
「あの事件について、今何か思うことはありますか?」
「連中はみんな、玉ねぎでも踏んでひっくり返ればいい」
※1 ムンクの個展はベルリンの各新聞で激しく攻撃された
※2「愛と死」というテーマで自身の作品を結びつける試み
ムンクはいつの間にか、また手袋を外していた。
短い間に手袋をつけたり、外したりする様は、やや奇異に映った。もしかして、まだ神経症かアルコール依存症の症状が残っているだろうか。それとも単に彼生来の神経質な気質によるものだろうか。私には判断がつかなかった。
「君、爪が汚れている」
唐突にムンクがいった。
「爪が汚れていると、良くない。良くないことが起きる。君、結婚は?」
「……いえ、まだです」
「そうだろう」
爪が汚れてるような男は結婚できないという意味か、それとももっと深い意味でもあるのか。こちらが求めている答えの、2歩手前までしか喋らない男だ。
私は静かに息を吸って、吐いた。
春なのに、少し息が白かった。
「爪のことは、気がつきませんで、お恥ずかしい限りです。結婚といえば、あなたもまだ独身ですが、今まで沢山の女性と噂になってきました」
「あぁ、20代、30代の頃はな。だがもう禿げかけたジジイだ」
「思い出したくもないでしょうが、トゥラ・ラーセン※3との事件もありました」
「ハハッ。私の女関係で真っ先に言われるのがそれだ」
「1902年、夏の出来事です」
「今から7年前か。あの夏は寒かった。雪でも降ったか?」
「ドイツよりノルウェーの夏は涼しいでしょうが、流石に雪は降ってないかと」
「そうか、私の記憶の中のあの夏は、真っ白な雪が降りしきっている」
※3トゥラ・ラーセン ムンクが35〜39歳頃付き合っていた女性
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1902年 夏。
ノルウェー郊外、オースゴールストラン。
指定されたホテルは、大通りから路地に入り、1回、2回と複雑に曲がった先のどん詰まりにあった。
何度か迷いながら、ようやくホテルの入口の路地にたどり着くと、倒れたゴミ箱から生ゴミが道いっぱいに広がっていた。
おろしたての革靴を汚さないよう、つま先で歩く。アルベルト※4に作品を売った金で買ったばかりの革靴だ。
どうにか生ゴミ地帯を抜けたと気が緩んだ一瞬、玉ねぎのかけらを踏みつけ、バランスを崩し、転びそうになる。
何とかもちこたえたが、ここまでして彼女、トゥラ・ラーセンに会わなくてはいけないのか。考えるほどに馬鹿らしかった。いっそ、会わずに帰ろうとも思ったが、振り返ってゴミの山を見ると、その気も萎えた。
仕方なく、ムンクはホテルの木の扉を押した。
※4 アルベルト・コルマン この頃、ムンクを経済的に援助していた実業家。
ムンクは、トゥラが待つホテルの部屋の前で、ズボンのポケットから手袋を取り出すとはめた。
紺のワイシャツの襟元を、黒のネクタイの結び目ごと掴んで何度かほぐす。深呼吸もしてみたが、扉の向こうに彼女がいると思うと、息がつまった。一体、今、どんな顔をして自分を待っているのだろう。そして自分は、どんな顔をしてこの扉を開ければいいのか。
気持ちの定まらぬまま、ムンクは扉をノックした。
「開いてるわ」
落ち着いた声に、少しほっとして扉を引いた。
彼女は部屋の奥の窓際に置かれたベッドに腰かけていた。
床に敷かれたピンクの絨毯の色褪せ具合が、いかがわしいモーテルのようだった。
「迷わなかった?」
「あぁ。いや、少し迷ったかな」
「そう、途中でゴミでも踏んで転んでるんじゃないかって、心配したのよ」
「あぁ、ホテルの入口な、酷いもんだ。ホテルのスタッフは掃除くらいしないのか」
「アレ、私がゴミ箱、蹴り上げてやったのよ。おかげでストッキングが台無しよ。あなたに買ってきてもらえばよかった」
トゥラはスカートを履いた右足を持ち上げ、ストッキングが伝線したふくらはぎを見せた。彼はとっさに視線をそらした。その反応に、彼女はふんっと小さく鼻を鳴らした。
「最近、調子いいみたいじゃない。いい色ね、その革靴。どうしたの?買ったの?茶色が明る過ぎて、貴方には全然、似合ってないけど」
そう言って、口に手を当てて笑った。
芝居じみた彼女の言動に、ムンクは早くもうんざりしていた。彼女は、こんな女だったか。出会った頃は、控えめで優しかった。いや、今だってその本質は変わらないだろう。それを、こんな突っけんどんな物言いの女に変えてしまったのは、自分だ。それは分かっている。分かっているが、彼女と結婚する気がない以上、どうしようもない。
「元気そうじゃないか」
「元気かどうなんて、良く分かるわね。最近、会おうともしないくせに」
「……」
「逃げてるんでしょ、結婚の催促が嫌で。でも安心して。私、幻滅なんてしてないから。貴方ってそういう人よ、元から。元から小さくて、意気地がなくて頑固なの」
「……君の友達から、君が変な気を起こしてるって聞かされた。だからここへ来たんだ」
「そうね、付き合ってる女に自分のせいで死なれでもしたら、画家としての経歴に傷がつくものね」
「傷がつくほどの経歴じゃない。何よりここで君が死のうが、僕とは関係ない」
「じゃあどうして今日、ここに来たのよ」
ムンクは手袋を取った。
締め切られた部屋は蒸し暑かった。
「心配だったし、君に呼ばれた」
生真面目なムンクの答えにトゥラは声を上げて笑った。
「何それ。貴方ってまだカレッジスチューデントだったの?私が寝たのは別人かしら?」
「用がないなら帰る」
ムンクは手袋をはめると、踵を返してドアノブに手をかけた。
「動かないで」
背後で、音がした。
振り返ると、彼女の手に拳銃が握られていた。
銃口は、こちらを向いていた。
「馬鹿な真似はやめろ」
とっさに出た言葉が、映画の台詞みたいで思わず笑いかけた。僅かに浮かんだ口元の笑みを、彼女は見逃さなかった。
「脅しじゃないわよ」
「分かってる。だが僕を撃ってどうなる!?馬鹿げてる!」
両手を前に出して身振りで訴えた。
そんなことをしている自分も、まるで「密室の男と女」という芝居の役を演じているようで、現実感がなかった。
「貴方が死ねば、私も結婚、結婚、言わなくて済むわ」
「落ち着けよ、今日は君にプレゼントを持ってきたんだ、仲直りがしたくて」
「嘘よ!」
「嘘なものか。話が思わぬ方向へ進んでしまったから、言い出すきっかけがなかっただけさ。こんなつもりじゃなかった」
「手ぶらで来といてよくそんなことが言えるわね。貴方がこの部屋のドアをノックした時、思ったものよ。花束でも持って来てくれるかしらって。でも実際来たのは、つまらないネクタイした仏頂面の男だったってわけ」
「サプライズさ、小さいんだ。ポケットに入ってる。本当だ」
彼女の目の色が、一瞬、揺れた。
「何よ、指輪なんて言わないでよね」
「さぁどうだろうな?そうかもしれない。でも別の何かかも。とにかくその銃を一度おろしてくれないか。この状況は、どう考えてもプロポーズに相応しくない」
「プロポーズ!?」
彼女が驚いたように身体を引いた。
手がブレ、銃口が逸れた。
その隙をついて、ムンクはトゥラへ突進した。
気づいた彼女が拳銃を構え直す。
ムンクは走りながら手袋を取り出すと、彼女の顔目がけて思い切り投げつけた。
ムンクがトゥラに飛びかかるのと、銃声が鳴り響くのが同時だった。
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何度目だろう、彼は手袋を外すと、ポケットへしまった。
「トゥラと何があったのか、聞かせてくれませんか?」
ムンクは、しばらく俯いて動かなかった。
「呼び出されたんだ、彼女から」
「ええ。その頃、結婚の話で揉めていたとか」
「あぁ。僕はようやく仕事が認められ出して、まだ結婚する気はなかった。でも彼女はこれ以上待てなかったんだろう」
「彼女と会ったのは、話し合いをする為ですか?」
「いや、僕としては別れるつもりだった」
「では、別れ話をする為だったと?」
「……まぁそうなんだが…どうだろうな。当時はベルリンで仕事をしていて、彼女にもしばらく会ってなかったから…」
「……少し、恋しくなった部分もあったと?」
「そういう訳ではないが、とにかく顔を見て話すのが大切だと思ったんだ」
「分かります。では何故、彼女の撃った拳銃の銃弾が、貴方の左手の中指を撃ち抜くことになったのでしょう?」
「まぁ、それはよくある痴話喧嘩のもつれさ」
先ほどまでとは違う、迷いのないその簡潔な答えに私は逆に違和感を感じた。
「痴話喧嘩でそこまでいくのも稀でしょう」
「彼女はベッドに腰掛けていた」
「……」
「ベッドのシーツの下に、隠してたんだ。気づかなかった」
「隠していた拳銃で、貴方を撃とうとした?」
「いや逆だ」
「逆?というと?」
「彼女は、自分のこめかみに銃口を当てていた」
私は息を呑んだ。
「自殺しようとしていた?」
「あぁ…」
「あなたはそれを止めようとし、揉み合いになり…引き金が引かれてしまった…?」
「あれは事故なんだ」
確かに矛盾のないストリートーだった。
しかし彼の落ち着きぶりは何だろう。
自分の指が弾丸で吹き飛ばされたのだ。
それをこんな冷静に話せるものだろうか。
「その話、どうやって信じたらいいでしょう?」
彼は私を上目遣いで見ると鼻を鳴らした。
「いつ、信じてくれと頼んだ?君が頼んだんだろう?話してくれと。だから話した。それだけだ」
私はしばらく考えを巡らせた。
「その話が本当であれば、確かに事故と言えなくもないでしょう。ただ、画家にとって命に等しい指を撃たれて、彼女に怒りや恨みはないのですか?」
「そりゃあね。穏やかじゃないさ。今でも痛む。しかし、言ったところで仕方がない。どちらにしたってあと数十年だ。数十年もすれば僕も彼女もこの世にはもういない。このことは、なかったことになる」
ムンクとは、こんなにサッパリ物事を割り切れる男だったろうか。何となく、インタビュー前半に受けた印象と違う。
「……もし、あなたが嘘をついてるとして…」
ムンクは私の言葉を聞きながら、ゆっくりとポケットから手袋を出すとはめた。
「ほぉ…」
「もしその時、銃口は彼女のこめかみではなく、あなたへ向けられていたのだとしたら…」
「それなら、僕は今ここに座ってない。そうと決めたら、躊躇する女じゃない」
彼は私の目を見て言った。
本当だろうか。疑問は残る。だがこれ以上、真偽を問いただす術がなかった。
仕方なく私は話題を変えた。
「そうですか。ところで、あなたと別れた後、すぐに彼女は別の男性と結婚しました。それも、あなたの知り合いの、あなたより若い男性と」
「彼女には反吐が出る。だが、当時の自分にも反吐が出る。まぁ1番反吐が出るのは、その男なので、そいつには私と彼女、2人分の反吐を頭からかけてやるので丁度いい」
私は表面的でない、もう少し彼の気持ちの奥にあるものを聞いてみたかった。
「あなたがアルコールに溺れ、暴力事件を引き起こすようになったのも、彼女との事件後です。やはり、精神的な影響はありましたか?」
ムンクは1分ほど何も答えず俯いていた。
「まぁ、それもあるだろう。でも、それはトリガーに過ぎない」
「確かに、女性や死への不安は、あなたの作品の根底に流れる共通のテーマです」
「落ち着くところがないんだろうね」
呟くように言ったその言葉が、彼が今日初めて口にした、唯一の本音に思えた。
「やはり幼少期にお母様やお姉様を亡くされたのが大きかったですか」
「僕の色んな精神のことを後づけで説明すればそうだろう。けれど、殺人鬼に何故人を殺すのか尋ねたところで答えはない。僕の不安もそういう類だ」
「理由などない、持って生まれた気質だと?」
「僕自身は、そう思ってる。僕がしでかした色んなことを、母や姉のせいにしたくない」
「先ほど、ノルウェーに戻られるという話もありましたが、最後に今後の活動について聞かせてください」
「今後か…山仕事でもやるかね」
「……?」
「ハハッ。冗談さ。どうしようね、考えてないんだ。まぁ、大人しくしとくさ。棺桶には指10本揃った状態で入りたいからね」
そう言うと彼は立ち上がった。
慌てて私も立ち上がる。
インタビューの時間は決めてなかったが、確かに頃合いかもしれない。
私の礼の言葉に軽く手を振ると、彼はサッサと入口へ歩き出した。
そのまま出て行くと思われたが、立ち止まると振り返った。
「そうそう、1つ訂正しておこう。私の姉は、いつも右から靴を履いていた」
「そうですか。それなら私も1つ、記憶違いをしてました。靴はいつも、左から履いています」
私と彼は、顔を見合わせるとニヤッと笑い合った。重ねて私は尋ねた。
「他に何か、訂正したいことは?」
「無いさ。君の幸運を祈る」
それだけ言うと、彼は踵を返し教会を出て行った。
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ムンクはトゥラとのことを「マラーの死」という作品に残している。
ベッドに横たわる男の腕からは血が流れており、ムンク自身と言われている。冷たい表情で立ち尽くす女はトゥラか。
この絵を見ても、その時何が起きたか、真相は闇の中のままだ。(終)
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