【異聞】「記憶の固執」〜世界は深夜、張り替えられる〜
雨が降ると時間が溶ける。
目の前の街路樹や信号機がダリの絵画のように歪み、足元の水溜りに泥のように落ちていく。
なかなかの量だ。これなら結構、"畑"が埋まるだろう。
わたしはカーゴパンツのポケットからコンパスを出すと、七色に滲む水溜りの表面に円を描いた。すると水溜りに穴が空き、「時渡りの鯰」が顔を出した。
「『世界ロール堂』までお願い!」
わたしの顔を見て、なんだ、お前かと顔を顰めた、鯰は渋々といった様子で穴から飛び出すと、空中でぐるんと丸まった。垂れた髭を掴んで、わたしは背中に跨る。
「おい、髭は引っ張るなと言ったはずだぜ。こいつが狂うと、どこに出るか俺にもわからん」
「だって掴むところないんだもん」
「言っとくがな、俺の仕事はロードバグ(侵入者)のメンテナンス(抹殺)だ。運び屋じゃねぇ」
「分かってる。でも溶雨(ようう)で落ちた物を"植える"には鮮度が命なの」
舌打ち代わりにブワッと雨を吐き出すと、鯰は潜った。
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古びて傾いた『世界ロール堂』の引き戸は建て付けが悪い。両手で力を込めると、バーンと開いて、柱にガーンと当たり、作業中だったジキルに怒鳴られた。
「だったらこの引き戸、どうにかしてよ。一応、客商売でしょ?入るなって言ってるようなもんよ」
「おめぇみたいなじゃじゃ馬に乗り込まれてキャンキャン言われねーようにだよ」
「じゃ、意味ないわね」
店の左壁は一面、棚になっており、20センチ四方に区切られている。その1つ1つに、獣の毛皮のような厚みのものが巻かれて納められている。色は様々で、微かに発光しているものや、時折りゆっくり緑に明滅しているものもある。
ジキルは身をかがめ、おぇっ!とえづくと、口から小さな白い球を吐き出した。吐き出されると球の表面に白い毛が生え、細胞分裂のように亀裂が入った。それはやがて尻尾を丸めたネズミの形となり、卵から生まれるヒヨコのように慌ただしく四肢を伸ばして作業台の上で踏ん張ると、首を伸ばして辺りを見回してからキュイッと一声鳴いた。
白いネズミに似たその生き物は、しかし、顔だけ猿だった。この「地吸い(ちすい)のサルネズミ」はジキルの仕事仲間だ。このネズミが世界を吸い取り、それを、ジキルが剥いで巻物にして、棚に収めるのだ。
サルネズミがどこまで世界を吸い取るかは、わたしのコンパスで決める。
わたしはサルネズミを肩に乗せ、店の外に出た。店の裏手には広大な砂漠が広がっている。わたしは少し広げたコンパスを前方へ向け、くるりと回した。目の前の中空に、赤枠の円が出来る。それを親指と人差し指で広げる。ジキルによると、この広げ方は、ピンチアウトといって、ガラクタ屋で見つけたスマートフォンという大昔の機械の操作法と同じらしい。
円がピザ生地くらいの大きさになったら、縁の赤い部分を掴んで、水平にする。水平にした円の中にサルネズミを入れる。肩に乗ったサルネズミを掴むと、キャキャッと抗議するように鳴かれた。
円は宙に浮いているように見えるが、その中に入れられたサルネズミは円の中に見えない地面でもあるかのように下には落ちない。カーディガンのポケットに入れておいた乾燥カボチャをあげ、それをサルネズミが齧っている間に、2、3回、背中を撫でる。その途端、ゴウッと空気が裂かれる音が鳴り、一気に円が四方に広がった。なぜ、サルネズミを撫でると円が広がるのかは知らない。昔、宗教というのがあって、その中で、地蔵という人形(ひとがた)の石を撫でると願い事が叶うと言われていたらしい。もしかしたらこれも、そういう類かもしれない。撫で地蔵に撫でネズミ。思わず呟いたら、カボチャを食べ終えたサルネズミに嫌な顔をされた。
「ヒューイ!」
指笛を鳴らすとサルネズミが円の赤い枠に後ろ脚で立ち上がり、少し上体を前に乗り出し、口を開けた。猿そのものの2本の犬歯を剥き出しにし、風を探るようにしばし口を震わせていたが、やがてサルネズミは絶叫した。耳をつんざく甲高い悲鳴のような鳴き声が数度続くと、円で囲われた部分の砂漠の表面が、地震のように揺らぎ、地面から捲れ上がった。風に煽られ、捲れる敷物のように。
サルネズミは鳴き止むと、捲れ上がった砂漠の地表を前脚で掻き集め、吸い込み始めた。時折り、シャクシャクと咀嚼しながら、地表を吸い込んでいく。手のひらサイズの身体のどこにこんな広大な地表が収まるのか知れないが、全て吸い込む頃にはサルネズミの白い身体がうっすら赤みを帯びてくる。吸い込み終わるとサルネズミはヨタヨタとわたしの手に戻り、力尽きたように眠ってしまった。
「おつかれ」
わたしは乾燥カボチャが入ったポケットにそっとサルネズミを入れた。
地表がめくれた砂漠の表面は油田のように黒く泡立っている。ここが時渡りの鯰の住処だ。彼らは地表の下にいて、世界を監視し、また、密かに作り替えている。ジキルやサルネズミと同じく、鯰もまた、わたしの仕事仲間だ。
わたしは泡立つ黒い沼の縁にしゃがむと、辺りの砂をパラパラ落とした。するとやがて鯰が沼の中から顔を出した。
「お前、前から言おうと思ってたけど、俺のこと、鯉かなんかと間違えてねーか?」
「だってこの前、手叩いて呼んだら怒ったから」
「お前の発想は全部基本が鯉なんだよ」
鯰は仕事は出来るが、小言が多い。
わたしは鯰を無視して、空に向けてコンパスで円を描いた。パカリと空に穴が空き、さっき溶雨で溶けて、水溜りに流れ込んだ信号機やビルなどが、どさどさ落ちてくる。溶けたチーズのように歪んだ建物や構造物が、鯰が髭で払うと元通りになっていく。みるみる、黒い沼地に都市が出来上がっていく。中には人もいるが、一瞬辺りをキョロキョロ見回した後、何事もなかったように歩き出す。
「みんな溜め池の鯉でしょ。気づかないだけ」
鯰はわたしの言葉にフンっと鼻を鳴らした。
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眠りから覚めたサルネズミが前脚を伸ばし、背中を反らして伸びをする。欠伸ついでに、茶色い球体をオエッと作業台に吐き出した。ジキルは唾液で濡れたそれをドライヤーで乾かしていく。表面の茶色は砂漠の砂だろう。サルネズミは吸い込んだ世界を体内で球状に出来る。
大豆ほどの大きさだったそれは、乾かすとみるみるハンドボールくらいの大きさまで膨れ上がった。
ジキルは大きくなった茶色の球を持ち上げると、尖った右手の人差し指の爪に刺し、しゅるるっと回した。上から叩くと、黒ずんだ球体の芯がポトリと落ちた。
それからナイフで薄く切れ目を入れ、そこから爪でペリペリ表面の茶色の部分を剥がしていく。まるで林檎の皮むきだ。剥がされた球体の表皮はムクムク膨張し、棚に収められている巻物くらいの厚さになった。表面には、さっきまで店の裏手にあった砂漠がその凹凸までミニチュアのように再現されている。
ジキルが、ミニチュアの砂漠の上で手を振ると、小さな竜巻のような砂煙が上がった。
「上出来だな」
「砂漠なんて需要あるの?」
「まぁな。世界が枯れてた方が都合がいい奴もいるのよ。森林を伐採したから砂漠になったのか、それとも、"もともとそこは砂漠だったのか"ってね。神のみぞ知るだ」
「神を名乗るほど上等な商売じゃないわ」
「知ってるよ。俺らはな、カーペット売りと同じだ。客の気に入った柄を売るだけさ。ラインナップは豊富、戦争から密林、大都市に砂漠、何でもござれだ」
ひと仕事終え、わたしとジキルは店の隅のテーブルで紅茶を飲んでいた。
「ダージリン以外を飲む奴の気が知れねぇ」
わたしがアールグレイの香りを楽しんでいるとジキルはそう言って、角砂糖を5つほど自分のティーカップに投げ入れた。それをスプーンの先でガシガシつついている。
「ハル、お前、何歳になった?」
「14」
「じゃ、この仕事も4年か」
「うん。ジキルは?」
「さぁな。忘れたよ。この仕事に歳は関係ねぇ。定年もねぇ。ただ契約があるだけだ」
「溶雨をあなたが降らせてるって本当?鯰との契約で」
「さぁな。そういうセンシティブなことを聞くなよ、お嬢ちゃん。でもな、たまには、世界は壊さなきゃならん」
そう言ってジキルは左目だけレンズの入った目を細めた。
「昔はな、自然災害に頼ってたんだ。でもそれじゃあんまり、ショックがデカすぎる。なら、芝生の交換みたいに少しずつ、メンテナンスして張り替えた方がいい。それで俺らの商売が始まったわけだ」
「じゃ、その"除草剤"の正体はなんなのよ」
わたしはカップを持ち上げ、アールグレイを飲みながらジキルを睨んだ。ジキルは髭を捻って少し考えると言った。
「これまでこの星に生きた人間達の嘆きの涙かな」
どうだという風に、こちらを見てくる。
「それが雨となり地に降り、こんな世界はもう嫌だと溶かすってわけ?ふん、詩人失格ね」
わたしは半分ほど紅茶を残して席を立った。
店を出て、傾いた看板を振り返る。
昔、ロールケーキというお菓子があったらしい。
それと同じように、世界を巻いて売るから、『世界ロール堂』。
事情は知らないが、今いる世界が気に入らない、変えたいと思っている人は沢山いるのだろう。そして、そのためなら金を出す。だから今日も傾いたまま、この看板は落ちない。
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大きな仕事が入った。
いつもの得意先からだ。
何でも隣国に攻め込むらしい。
ついては1つ、盛大なやつを頼むと言われた。
戦争絡みのストックは多い。過去の大戦の目を背けたくなるようなのもアーカイブしてある。
「これは?派手すぎる?」
棚に脚立を立てかけ、普段は滅多に見ない、天井近くの棚を調べていたハルが1本の巻物を手にして言う。『核兵器を使われた島国』とラベルがしてある。
「お前、この商売をゲームか何かと勘違いしてねぇか?世界を張り替えるったってな、畳じゃねぇんだ、リアリティが必要なんだよ」
尚も脚立の上から何か言うハルの言葉に聞こえないふりをして、一言、戻しとけ!そう怒鳴った。
その時、作業台の上の黒電話が鳴った。
受話器を取り上げると鯰からだった。
侵入者を捕らえたという。しかも、人間の子供だという。
基本的に、この店がある、世界を作り替えるための「編集用の世界」に普通の人間は来れないようになっている。ただ、時折りこうして、「本番用の世界」から紛れ込む者がいる。どうやって、時空を超える水溜りを見つけるのかはわからない。古い言葉に「一念岩をも通す」というのがあるらしいが、それかもしれない。
ジキルがわたしに声をかける。
「おい、ガキの侵入者だとよ。映像を出せ」
わたしは手にしていた巻き物を棚に戻すと、カーゴパンツのポケットからコンパスを取り出し、店の壁に向かって円を描いた。
円は白く光り、やがて鯰と、その髭に絡め取られた男の子の姿が浮かび上がった。白いTシャツにオーバーオールを着た10歳くらいの男の子がこちらを睨んでいる。
「処理するぞ」
そう言う鯰にわたしは叫んだ。
「店に連れてきて!」
「面倒はごめんだ」
「あんたは巻き込まないわよ」
チッ!舌打ちすると鯰は髭を振って、スクリーン目掛けて男の子を投げ飛ばした。
次の瞬間、店の床に男の子が転がった。
うめきながら立ち上がった男の子に、ジキルが右手の人差し指を突きつけた。その先端の爪は、世界を剥ぐために、ナイフのように尖っている。
「動くなよ、ガキ。ここじゃ侵入者だ」
男の子は顎を引き、ジキルを睨んでいる。
脚立の一番下の段に腰掛け、わたしは男の子と向かい合った。
「君、名前は?」
「お前ら、悪い奴らだろう。母さんを、どこへやった」
「お前こそ、口の聞き方に気をつけろ。この喉、ちょっと引っ掻いて、しゃべれなくしてから、"良いところ"に連れてってやろうか?しょんべん漏らして、もう殺してくださいと泣いたって済まないような、"そういう世界"もここには沢山ある」
ジキルの眼鏡が赤く光る。活きの良い獲物を見つけて上機嫌な証拠だ。
「悪党め!」
「私たちは、顧客の要望に応じて世界の塗り替えを行ってる。でも、個人に干渉することはないわ」
「お前らのせいだ!朝起きたら、戦争が…」
男の子は声を震わせて俯いた。
「付き合いきれん」
ジキルは興醒めしたように言って、腕を元に戻した。
最近、幾つもの村が破壊される戦争があった。
しかし、そんなものは大昔からある。
その全て、私たちのせいにされても困る。
私たちだって、熱帯雨林保全など、人間の尺度で言えば善とされる商売だってやっている。もっとも、戦争も自然保護もわたしらにとっては等価だが。
「それで、どうしたい?」
ジキルが問う。
「戦争のない世界へ、母さんがいる世界へ戻せ」
「ほぉ。ビジネスでってことなら受けよう」
「ジキル、こんな子にお金なんて払えないでしょ」
「まぁ、働いて返してもらうさ。お前も、都合よく使えるガキがいると便利だろ」
そう言ってジキルはニヤッと笑った。
「まぁそういうわけで、お前の母親がいる世界に張り替えてやってもいいが、そこにお前は戻れない。それでいいか?さぞかし、母親は嘆くだろうな、最愛の息子を失って」
クククッとジキルが笑う。心底、楽しそうだ。
男の子は顔を上げると、再びジキルを睨んだ。
唇を噛み、怒りのせいか、ふわっとパーマがかかった髪が小さく揺れている。
「ねぇ。わたしが元の世界へ帰してあげる。だからそこで今まで通り生きなさい。お母さんのことは残念だったけど、そんなことでいちいち腹を立てていたら、これから先、生きていけないわよ。何度だって、世界を恨みたくなる時は来るのよ」
わたしは男の子に近づくと、そっと髪を撫でた。
男の子はわたしを見上げるとキッパリ言った。
「嫌だ。僕を人質にするならそれでいい。母さんのいる世界へ戻せ」
わたしはジキルを振り返った。正直、お手上げだった。まさか、代金代わりに本当にここに留めるわけにもいくまい。ジキルは、男の子から住んでいる地域を聞くと、ふーんと呟いた。それから、ニヤリと笑って言った。
「お前の根性に免じて、一晩限りの出血大サービスをやってやるよ」
そう言って、わたしにその地域のアーカイブの巻き物を探させると、爪で男の子の家の周りだけ切り取った。
わたしは「本番用の世界」へ男の子を送り届けると言った。
「今夜は、ゆっくり眠りなさい。起きたら、あなたが望んだ世界よ」
結局、その夜、無償で世界は張り替えられた。
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仮眠を取って、ジキルとわたしは遅めの朝食を取っていた。結局昨晩は徹夜だった。
「無償奉仕も楽じゃないな」
そう言っていつものように砂糖盛り盛りのダージリンを飲むジキルの顔はしかし、穏やかだ。わたしも、妙にスッキリした気持ちだった。
「こういう人助けみたいのも、たまには悪くないわね」
「人助け?」
ジキルがカップを置いて聞き返す。
「お前、今度の大きな戦争絡みの仕事が、どこの地域か知ってるか?」
わたしは慌てて、さっきまでいた、天井近くの棚の巻物で、該当地域を確認した。
男の子の家は、その中心地だった。
「まぁせいぜい、束の間の夢を見るこった」
呟くと、ジキルは再び甘い紅茶に口をつけた(終)
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