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【日記】なぜ私は語彙力が上がったのか〜言語化スキルを上げる秘訣①〜

こんにちは、唐梨です。
今日は、なぜ私は語彙力が上がったのかについて書こうと思います。
それでは早速いってみましょう。





ありがたいことに言語化スキルは褒められてきた人生

本当にとてもありがたいことに、私は言語化スキルだけは、割と褒められる機会が多かった(とはいえ、まだまだ発展途上だが)。

リアル友達からも「どうやったらそうなるの?」と聞かれたことがあるけれど、そう言われても「よっしゃ、言語化スキルアップのための千本ノック!」みたいに意識して強化したことはない。

ということは、これまでの人生の日々の生活の中で、無意識に強化されていたことになるが、なにせ無意識なのではっきり答えられない。

そこで、これこそnoteの格好のネタじゃないか、ということで以下に掘り下げてみることにする。




なぜ言語化スキルが上がったのか

振り返った結果、マイナス面のきっかけとプラス面のきっかけ、両方があった。だいぶボリューミーになるため、ここではマイナス面のきっかけとその解決策について取り上げる。




マイナス面のきっかけ①

幼少期のままならなさ

遡ること幼少期。子どもの頃の私は、妙にこまっしゃくれたところがあり、子どもらしい振る舞いをすることに抵抗があった。

親に遊園地に連れて行ってもらっても

「この着ぐるみの人を前に喜ばないといけないの…?そんなに嬉しくないんだけどなぁ。うわ、親が写真撮ろうとしてるよ!お願いだから止めて!引きつった笑顔にしかならないから!ひぇぇぇ無理!」

と思っていたし、ファミレスに連れて行ってもらっても

「なんで『お子様ランチ』とか『ちびっ子向け』って名前なんだろう。『お子様』『ちびっ子』なんて言われちゃ、せっかく食べたいと思っても頼みにくい」

と変にズレた子どもなりのプライドを発動させていたし、幼稚園のお遊戯会は、

「げっ!こんな小っ恥ずかしいことできっかよ!しかも保護者も見にくる前で!」

と謎に昭和の九州男児みたいな性格が顔を出していた。

要するに、可愛げのない子どもだったのである。たぶん、未就学児童の頃が一番、肥大化した自意識を持て余していたと思う。笑

これで要領がよければ「なるほど、子どもらしく振る舞えば親や先生は喜ぶんだな」と、無邪気な子どもを演じられたのかもしれない。

しかし、変に「自分に嘘はつけない!」と筋金入りの頑固だったことと、すぐ顔に出る大根役者だったことにより、ただぶすくれて無愛想でいるしかできないのだった(なんという不器用さ!)。幼少期の世渡りはかなり下手であった。

当然、親は

「どうしたの?何が気に入らないの?」

と聞いてくる。だが、上記の心の声は、大人の今振り返っているからこそ言語化できるのであって、幼児の私は感覚的なモヤモヤしかなかった。そのため、私は

「なんかいや」

としか答えられなかったのである。5文字!!!本当は心に思うモヤモヤがたくさんあるのに、たった5文字でしか伝えられない我が身のはがゆさ!!!

くそぅ、幼児の知能レベルではこれが限界なのか、なんてままならない体なんだ。もっと言葉を喋れたら伝わるかもしれないのに!!!

…という言語化も、今だからこそできることだが、間違いなく当時の私を通訳したらそう思っていた。この原体験が「言語化スキルを上昇させたい!」と心から思うきっかけになったのだろう。

今なら分かる。私は「あなた子どもでしょ?子どもだったらこういうの好きだよね?喜ぶよね?」という前提が苦手だったのである。そして「そんな周囲の大人の期待に応えられず、喜ぶべきものを喜べない、自分の子どもらしからぬ感性のズレの残念さ」が嫌だったのである。「私は子どもらしい期待には応えられないから、どうか子どもらしいところに身を置かないでほしい」と願っていたのだった。

「親とか、遊園地のパレードのお姉さんとか、水族館のショーの司会の人とか、幼稚園の先生とか。彼らは押しつけているわけではなく善意であり、全力で子どもたちを喜ばせたくて与えてくれているのに、どうして自分はそれらを喜べないんだろう」
「もし私が、遊園地やお遊戯会を楽しめる感性だったら、大人も私もwin-winで子育てライフと幼児ライフを楽しめたんだろうなぁ」
と思っていたのだ。

まさか大人になって、子ども向けアニメの良さを熱く語り、遊園地のショーのお姉さんの可愛さに全力で手を振り、宝塚やミュージカルといったお芝居大好き人間に成長するとは。笑

よもや予想だにしなかった。幼児の私が聞いたら腰を抜かすだろう。

いや、これも大人になったからこそ楽しめたのかもしれない。きっと子ども時代にプリキュアを見ていても、ナナメな私のことだ。「子ども騙しのご都合主義でしょ」なんて思っていたに違いない。大人になったからこそ、子ども向けのメッセージを楽しいと思える感性ができあがったのだ。これからも、無邪気でピュアな大人でいたいものである。




街でギャン泣きしている子どもを見ると

以上の理由により、私は街でギャン泣きしている子どもを見ると、胸がきゅーーーっとして、なんともいえない気持ちになる。

「ああ、この子の心の中には本当は言いたいことがたくさんあって、でもそれを伝える術がないから、泣くしかないんだよなぁ。泣くことでしか表現できないもんなぁ」
「あれだけギャン泣きするってことは、それほど心に思うところが強くあるはず。でも伝わらないんだよね、もどかしいよね、分かるよ〜〜〜」

と勝手にシンパシーを感じてしまう。それくらい、幼児期の「伝わらなさ」は一種の喪失体験なのだ。




今の私が昔の私を通訳する/インナーチャイルドを癒やす

では、幼児期のショックな出来事をきっかけに、私は具体的にどうやって言語化スキルを上げたのか?

やることは簡単、紙に書いたのである。

もちろん紙じゃなくてもよくて、パソコンに打ち込むでも、家で独り言として喋るでも、なんでもいい。要はアウトプットできればいいのだ。この時の感覚としては通訳に近い。自分の通訳を自分でする。今の私が、昔の私を通訳する。

「あの時、本当はどう思っていたの?」
「何を感じていたの?」
「今の大人の頭脳があったらなんて説明してた?」

と掘り下げていく。すると

「そうか、本当は悲しかったんだ」
「喜んでほしかったんだ」
「嬉しかったんだ」

などなど、けっこう湧いて出てくる。この通訳がなぜおすすめかというと「私だけは私の気持ちを理解している、共感している、味方である」という状態になるため。セルフセラピーになるのである。インナーチャイルドが傷ついてるな、という人にもとてもおすすめだ。

そうやって通訳が習慣化されていくと「言語化=通訳=セルフセラピー=心が軽くなる」の図式ができあがり、言語化に対して前向きな気持ちになってくる。言語化するとなんかいいことがある、と思えたらしめたものだ。




最後に

このように、私が言語化スキルを上げた理由は

「言語化するぞ!と決めて毎日意識して取り組んできた」

というより、

「言語化せずにはいられないくらい心があふれた経験を、気持ちが湧き上がった時だけ、でもその代わり徹底的に追及して、どこまでもどこまでも掘り下げてきた」

ことによる。生きていれば、人には必ず心がいっぱいになる経験がある。その時にどう向き合うか、それが鍵なのではないだろうか。

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唐梨
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