見出し画像

政治家の言葉の力 —日本・英国・ドイツそれぞれの首相演説を比較して考えた—

1. 安倍首相の演説はそんなに「悪い」のか?

 世界規模の流行を見せているコロナウィルス。各国が対応に追われる中、国のトップが国民に向けてメッセージを発出する機会も多い。

 日本でも、緊急事態宣言の発令が決定し、安倍首相が会見を開き、国民に自ら説明を行っていた。

 リーダーというのは「何かあったとき」のためにいるものだ、と私は考えている。そして、それは案外、具体的に指示を出すことよりも、部下の判断を尊重し責任を負ったり、あるいはメンバーを安心・納得させたり……という、心理的なケアにその職責がある。これは、自分がそうしたリーダーではなかった、という反省に由来する信念でもある。

 ああ、話がずれてしまった。では、安倍首相の会見はどうだったのか。反応を見てみると、どうもあまり、国民を安心させたり、あるいは納得させたりしきれていない印象を受ける。むしろその点は、星野源始め、民間の側のほうが積極的な役割を果たしているようだ。

 そんなに内容のない演説だったんか……?と、いまさら会見の演説部分をゆっくりと見てみることにした。内容がないどころか、法律に基づいてどのような対策を講じているかについて、具体的な数字を含めて話をしている。つまり、内容面では(その施策の是非などは置いておいて)、別に問題はないのだ。

 しかし、どうにも、「国家の危機に対してトップが発出する」というにしては、メッセージが響いてこない。単純に安倍首相がさほど演説巧者ではないという事情もあるのかもしれないが、それにしても、トップのメッセージとしては明らかに「悪い」。

 では、どこが問題なのだろうか。それを考えるために、私は2つの国のトップメッセージと比較してみることにした。

 まずひとつは、イギリスのボリス・ジョンソン首相。

 そしてもうひとつは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相。

 ちなみにこの2カ国にしたのは、単純に私が原語でもある程度演説内容にアクセス可能であるというだけだ。なので、書き方はしゃちほこばっているが、内容は単なるレビューである。そのへんだけご了承願いたい。

2. 伝統的正統派エリートにしてザ・政治家 —ボリス・ジョンソン—

 まずは、ボリス・ジョンソンの演説。

 保守党の党首というだけあって、ジョンソン氏は英国でも筋金入りのエリートだ。イートン校、オックスフォードという経歴で、専攻は古典。大学在学中はディベートクラブや学生連盟の幹事(secretary)も務めていた。ジャーナリストという前歴からも、修辞や弁論についてはかなり造詣が深い。

 単純に、間の取り方と強調の置き方が心地よい。表現も平易で、字幕がなかったとしても英検2級程度の能力があればある程度は意味が取れる(はずだ)。メッセージもシンプルで、基本的に「家にいろ(stay at home)」と「国民健康保険を守れ(protect the NHS)」の2つが繰り返されている。時間は動画全体で6分13秒。医療関係者や指示に従う国民に対する謝意などももちろん含められており、演説として、とても構成のクオリティが高い。この人は本国ではチャーチルを引き合いに出されることもあるらしいが、なぜそれほどに政治家としての人気があるのか、分かる気がする。

3. 東独出身のインテリ宰相(Kanzlerin) —アンゲラ・メルケル—

 続いて、ドイツはアンゲラ・メルケルの演説。

 博士号を持つという点で、メルケルはボリス・ジョンソンとはまた異なるタイプの知識階級に属する。旧東ドイツ出身で、政治的には“柔軟”であるといった表現をされることがある。ドイツはその政治システムから長期政権を生み出しやすいが、メルケルもご多分に漏れず2020年で15年目を迎える。

 ボリス・ジョンソンとは対照的に、劇的な抑揚を付けるのではなく、元科学者らしい淡々とした語り口である。しかし事務的ではなく、おとなしいリズムの中に、大国のリーダーとしての風格が感じられ、演説につい引きこまれてしまう。表現も内容も、込み入ったことには触れていない。いちおう動画は連邦首相府公式の英語字幕版を持って来たが、ドイツ語検定2級を持っていれば、ギリギリ内容は把握できるのではないだろうか。時間は動画全体で12分43秒とイギリスの2倍ほどだが、メッセージはシンプルだ。ドイツが第2次大戦以来の国難に面しており、今は全員が団結して立ち向かって行くときだ。今はつらいけれど、ソーシャル・ディスタンシングを徹底しよう、そして、この戦いに勝ち抜こう。—そうしたことを、時に専門家の見解を交えつつ述べている。特に印象的だったのは、こうした国家の「強権的」とも言える外出禁止令について次のように述べていた箇所だ。

私はみなさんに約束します—私のように、旅行や移動の自由が闘争の末に勝ち取った権利である人々にとっては、こうした制限は、絶対的な必要性においてのみ正当化されなければなりません。このようなことは民主主義のもとでは、軽率にも、一時的にすら決められるべきではないでしょう。しかし、いまは命を守るために、それが避けられない状況にあるのです。(Lassen Sie mich versichern: Für jemandem wie mich, für die Reise- und Bewegungsfreiheit ein schwer erkämpftes Recht waren, sind solche Einschränkungen nur in der absoluten Notwendigkeit zu rechtfertigen. Sie sollten in einer Demokratie nie leichtfertig und nur temporär beschlossen werden - aber sie sind im Moment unverzichtbar, um Leben zu retten.)[佐藤訳]

メルケルが旧東ドイツ出身であるということを踏まえると、この一文と、そうした判断をメルケル自身がトップとして引き受けることの重さが、聞く者に強く伝わってくる。もちろん、旧東ドイツ出身者にとっては、事態の深刻さをより一層身に染みて感じる表現ともなっただろう。分断国家でありつづけた歴史と、移民問題によって国民の分断が高まりつつある中、国難に対して強く「連帯」を打ち出したのは、メルケルの意地でもあるような気がする。

4. もう一度、安倍首相の演説を聞いてみる —どこが問題なのか?—

さて、ここで改めてみなさんと安倍首相の演説を聞いてみよう。

 安倍首相も我が国においては政治的なエリートに属する。まさに「華麗なる一族」である。演説を見ながら、やっぱり岸信介や佐藤榮作に面立ちが似てるなあと何度も感じた。通算在職日数は史上最長、連続在職日数で見ても2位と、我が国の憲政史で見てもかなりの長期政権を率いてきている。

 内容は先に触れたとおり、非常事態宣言発出の経緯と、現時点での政府の対応に関するもの。国民や医療関係者への感謝の意なども織り交ぜられている。繰り返すが、「内容」にさしたる落ち度はない。

 滑舌はさほどよくないが、それを言うならボリス・ジョンソンもクセのある話し方をする。その点は本質的な落ち度にはならない。

 では、何が問題か。先ほどの2人と比較すると、安倍首相の演説には、大きく言って2つの違いがある。

 まず第1に、単純に話が長すぎる。動画は質疑応答も含めたものだが、演説部分だけで取り出してきてもおよそ30分。よほどの芸達者でなければ、30分も話を聞かせるなど至難の業である。

 そして第2に、関連法令に依拠して云々、対策として何をどれだけなど、事務的な内容とフレーズが多すぎる。その結果、スピーチライターである官邸スタッフ(=官僚)の言葉遣いが前へ出てきて、「国民の代表」ではなく「行政府の長」が話しているという印象を受ける。無論、演説の中には、国民の具体的な生活や気持ちに配慮する表現もありはした。しかし、内容の大半が事務的に過ぎると、そうしたフレーズの印象が薄くなる。とりわけ、序盤と終盤に心情的なメッセージが置かれている構成なので、中盤の官僚作文で飽き飽きしているうちに、聞く側の気持ちが離れてしまう。「賢い人」、つまり、「メッセージの受け手は中身を追いかけてくれる」ということを前提してしまっている人の文章の書き方だなあと思う。少し前に、マスク配布決定云々の話で現役官僚のFacebook投稿が話題になったが、メッセージの打ち出し方としては、同じ構造的問題を孕んでいるように思う(正直あまりいい情報元が見つけられなかったので、以下のネットニュースで勘弁して欲しい)。

5. リーダーの言葉にはなにが「欲しい」のか? —受験産業の立場と重ね合わせて—

 では、安倍さんはどうすればよかったのか。もちろん、我が国の行政機構がその枠内でベストを尽くさざるを得ない、そしてベストを尽くしていることは承知だが、現実を知らない人間の戯言として聞いてくれたらそれでいい。

 まず、具体的な施策の話については、官房長官に任せるべきだった。「状況を動かせる強いリーダー」を演出したかったのだろうが、メッセージを追いかけてくれる(関心か利害関係か情報処理能力のある)人間以外には、残念ながらその意図は達せられなかったように見える。むしろここでは、国家の緊急事態に対して、緊急事態宣言の必要性を端的に説明し、協力を要請することに、メッセージの要点を絞るべきだった。無論国家にとって、経済が生命線であることは確かであり、現実的に対策を打たなければならない課題はその点にあるだろう。しかし、聞く側の大半の国民にとって、「欲しい」メッセージが何かと考えたときに、果たして経済対策の話を聞きたいという人間がどの程度いただろうか。誰もかもが経済機構の中で生きているが、その中で主体性を持っている人間など、そんなにはいないはずだ。主体的に引き受けられること以外、人は誰も聞こうとはしないし、そもそも聞きえない(この文章がそうだろう)。

 受験生を指導していても、具体的な改善方法を示すだけでは、たとえそれが最も効果的であっても、期待した効果を発揮できないことが多い。対策には、それと相俟って「演出」が必要だ。いや、「演出」こそ、パフォーマンスを発揮させ「対策」を軌道に乗せるのに一番重要だと言っていい(こんなネタばらししていいのか?)。

 教育産業に身を置いていると、インパクトのわりに、方法論自体はフツー(あるいはメチャクチャ)という塾や指導者を結構見る。一昔前は、予備校講師というと、魑魅魍魎のような人間ばかりだった印象すらある。そんな精神論になんの意味がある、実質を求めなきゃしゃあないだろ……とかつては思っていたが、今になってみると、ああいう「演出」もまったく時には必要なことだと思う。

 演出とは、嘘をつく事ではない。たとえば、敗退を「転進」と表現することは、演出とは言わない。しかし、「間違いのない内容」を言うことに腐心しても、伝えたいこと、いや「見せたい」ものは相手に届かない。

 偉そうに言っているが、何せこの私がそうしたものに人一倍疎い。私の場合、まずは中身を言葉に追いつかせなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?