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【短編小説】ほたてはナオミの夢を見る

 死んでいるのに死にたくなるような、暗くて冷たい冷凍庫から取り出されたとき。ほたては、養殖場でのできごとを鮮やかに思い出していた。仄暗い海の底から引き揚げられた、あの瞬間。降り注ぐ陽光は、ほたての眼点を、炙るようにチリチリと焼いた。
 蛍光灯も、突き刺すようにまぶしかった。いよいよ、食べられるときがやってきたんだ。クラクラした。ワクワクした。引き揚げられたあのときのように、無垢な夢と希望とが胸中に満ち満ちた。回転寿司店の厨房の、臨戦体制のようなあわただしさに、ついうっとりとした。配達中のバイクの中でそんな話をすると、さまざまな反応が返ってくる。
 まずは、いくらが口を揃えた。
「私たちは、母親の腹からかっさばかれ、調味液にざぶんと浸されたとき、初めて光というものを知りました。まぶしいわ、アル中にさせられるわ、ちょっとした拷問でしたね。夢や希望? そんなもの、酔っていていちいち覚えていませんよ。ふふ」
 あまり、いい思い出ではなさそうだった。生まれずして、調理酒に酔わされる。ほたてにはまったく想像もつかないできごとだ。しかし、彼らの言う『拷問』については、わからなくもなかった。
 ほたては、噴火湾の養殖場で育った。俺たち、食べられるために育ってるんだぜ。最高じゃないか。かごの中で誇らしげに励まし合った、太陽をも焦がす、熱き青春の日々。
「優しそうなおばちゃんが、ナイフで、ささっと身を取るらしいぜ」
 夜陰にまぎれ、大人な話をする。オスどもは興奮し、思い思いに放精した。熟女にこの身を委ねる。熟女に選別されて、就職先が決まる。認められたい。熟女をうっとり、惚れ惚れとさせたい。オスたちは懸命に餌を食べ、十二分に眠り、すくすくと身を太らせた。
 しかし、現実は違っていた。
 アジア系の若い男子の手で機械にセットされたほたては、自動装置によってたらい回しにされた。口をこじ開けられ、ウロを吸われ、太った身を潰さんばかりに挟まれた。「いやああああ!」メスたちの絶叫は、死してもなお、忘れられない。
 次に口を開いたのはサーモンだった。
「ボクは、ずっと、サンライトを浴びて生きてきたさ。でも、生簀はつまらないオーシャンだったね。エヴリデイ、退屈でナンセンスだったさ。ジャパンってどういうカントリーなんだろうね、なんて話、九ヶ月もするだなんて。イッツァ、ピースフル・ワールド!」
 同じ養殖出身でも、すみかによっていろいろだ。ほたては、あたりを見渡した。
 人気の寿司ネタ、十二種セット。
 回転寿司店で解凍されたとき、ほたてはひどく狼狽した。一人前用のプラスチック容器に詰められたとき、ほたての周りには、人気者しかいなかった。サーモン、まぐろ、中トロ、軍艦ねぎまぐろ、かに身、真いか、赤えび、いくら、真鯛、上穴子、たまご焼き。
 ほたては、この人気者の中にどうして自分が含まれているのか、貝柱をひねるほかなかった。そして、思う。よほどの健啖家か、あるいは酔狂なマニアに供されないかぎり、自分は間違いなく、十二番人気だ、と。
 しかし、たまたま居合わせた人気者たちは、まるで悪いやつらじゃなかった。詰められ、肌身をしっとりと合わせつつも「よろしくお願いします」と、挨拶を欠かさない。かに身だけは、頭に刺さった薄切りのきゅうりを直しながら、ほたてたちを一瞥したが、ほとんどの人気者は、立身出世にあぐらをかかない、実に謙虚で、堅実な逸物だった。ほたては、この容器に詰められたことを、やおろずの神に感謝した。この出会い、巡り合わせに感謝した。彼らの引き立て役になろう、そう心に決めた。彼らに、この寿司折に、身を捧げようと誓った。十二番人気で構わない。でも、廃棄だけは、こわかった。
「生きていた記憶、それ、すなわち」
 軍艦ねぎまぐろは、頭に乗せられた青ねぎを盛んに気にしている。
「混沌として、判然とせず」
 その言葉に、かに身が「ふふん」と鼻で笑った。彼もまた、頭の上のきゅうりを盛んに気にしている。
「植物油と、ショートニングの記憶かい?」
「否!」
 軍艦ねぎまぐろは、かに身に青ねぎを投げつけた。しかし届かず、となりのいくらに引っかかる。
「けんかはおよし。同じ軍艦仲間だろう?」
 たしなめたのは、彼らの向かい。容器の右隅に詰められた、上穴子だった。
「私は、ほたてと似たようなものだよ。養殖か、天然かの違いだけだ」
 食べられるために育てられる養殖と、身ひとつで生きる、天然。天然組の上穴子は、捕まったときはさぞかし悔しかったろう。なぜなら、人間に食べられるために生きてきたわけではないのだから。
 まぐろ、中トロさんも上穴子さんと同じような思いなのだろうか。ほたては、左となりに身を寄せる中トロを、貝柱を少し傾け、見つめた。しかし、彼も、まぐろも、なにも発しようとはしなかった。
「僕はどちらかというと、液卵になってから、光を一度失いました」
 寿司界の孤高の存在、たまご焼は、ほたての斜向かいに詰められていた。
「産卵から液卵センターに運ばれるまでは、まあまあお日さまに当たれてましたけど、割卵機で割られて、貯留タンクに入ってからは撹拌、殺菌、充填、出荷と、ずっとくらやみの中にいました」
 魚類系の寿司ネタとは、ほぼ真逆の半生。唯一、農畜産出身のたまご焼のエピソードには、だれもが興味深く耳を傾けているようだった。魚卵であるいくらが、うんうんと頷いている。確かに、いくらとたまご焼は過程が似ていた。孵化せず、加工される。ほたては、自分の青春のいくらかを、彼らに分け与えたく思った。
 配達のバイクが停車し、車体がわずかに傾くのを感じる。
「着きましたね」
 たまご焼が、身をぷるんと震わせ、「出番です」そう、仲間たちを鼓舞した。
 リアボックスのふたが、ゆっくりと開く。
「ドキドキしますね」
 透明なふたにぽたりと落ちたのは、配達員の、額からしたたる汗だった。夜とは思えない湿気が、保冷剤に守られたほたてたちにもまとわりついてくる。
「夏、それは、サザン・ウインド!」
 ビニール袋越しに、街灯に照らされたサーモンは、食べられる興奮からか、少し赤らんでいるように見えた。サーモンは、ほたての右となりにいる。赤らみ、身をもじもじさせる姿は、海辺を手を繋いで歩く、中学生のカップルに似ていた。
 AI技術で育った養殖組のエリートも、ほたてのようなノーマルな養殖組も、天然組も、たまご焼も。寿司ネタたちの思いはみな、同じだった。食べられるという運命からは逃れられない。ならばせめて、自分好みの人間に食べられたい。配達される道中、光のまぶしさの話の前に、ほたてたちは遺言を残すかのように、己のフェチを告白し合っていた。
 それほどに、長い配達時間だった。ウーバーイーツの配達員は、アプリで売り上げ額を確認すると、マクドナルドが好きそうな顔を満面の笑みに変えて、意気揚々と引き揚げていった。ほたてたちが配達されたのは、都内とはとても思えない、さびれた町の、小さな葬儀場だった。
「これ、めっちゃ乾いてない? 綾子、マジでそれでいいの?」
 一回、触ってみなよ。真いかは、すっかりとできあがった酔客に全身をいじられる。
「いやあああ!」
 真いかは身を震わせ、絶叫した。真いかは、男性を好んだ。恰幅のよい、回転寿司店で寿司を三十皿、ペロリと食べるような男性。無精髭も欠かせない。そんな男性の一皿めになりたい。真いかは、さきほどの、ウーバーイーツの配達員に恋をした。配達員と目が合うたび、官能的なため息をこぼしていた。
「そんなこたあないよ。ちゃんとつるつるだよ」
 ほたてたちがお清め室に運び込まれると、赤ん坊を含め、七人の参列者がいた。女性の二人連れ。四人家族。私服の若い女性。ほたてたちは、二人連れのうちの、綾子の前に供された。
 しかし。
 じゃんけんで勝ったほうが、好きなの取れることにしようよ。
 綾子は、ビールをぐいっと煽ると、向かいに座るちなみの寿司をどかし、ほたてたちをテーブルの真ん中に置いた。ほたてたちは、にわかにざわついた。
 これでは、どちらに食べられるか、直前までわからない。
 初戦は、綾子がグー。ちなみはチョキ。綾子が勝った。
「ちなみがいか好きでも、いかはあげないよ」
 綾子の声は嗄れ、女性とは思えない低みを帯びている。身にまとう礼服も粗悪な縫製で、おそらく安価が売りの、アパレルチェーンで間に合わせた代物だ。渋沢栄一一枚で、北里柴三郎が三枚返ってくるだろう。真いかは今、綾子に選ばれ、この場のだれよりも青ざめていた。
「わたしは! こんな、けばけばしいおばちゃんに食べられるために生まれてきたんじゃない!」
 しかし、容器の中には、そんな綾子を好む寿司ネタもいた。ほたては、紙皿の上の真いかから、容器の左となりへと視線を転じる。
「眼福」
 真いかの苦悩そっちのけに、中トロはさきほどから恍惚の表情を崩さない。厚化粧で、下品。年は五十前後。それが、中トロのフェチだった。そのすべての条件を、綾子は満たしていた。
「ちなみ、わさび取って」
 ちなみの方によけられた、空いたビニール袋を指差す。「自分で取りなよ」ちなみの手が、渋々といった様子で、わさびの小袋を綾子へとほうり投げる。
「やけに、わさびが多いわ」
 赤えびの発言には、ほたてたちも頷いた。綾子の前には、わさびの小袋がどんどんと投げ込まれる。
「つーかさ、なんで私まで、こんなお通夜に来なきゃならないわけ?」
 ちなみが、最後のわさびの小袋を、綾子の顔面に投げつける。
「今夜は、せっかく上客の予約が入ってたのにさあ」
 ウジムラだよ。三万だよ。台なしだよ。
 文句をつけるちなみもまた、貧相な礼服を身にまとっている。サイズが小さいのか、それともふくよかになったのか。肩のあたりが角のように浮きあがり、豊満な体のラインがあらわになっている。しかし、夜職とおぼしき発言とはうらはらに、場に適した化粧をしている。綾子の、木苺のような口紅とは対照的だった。
「ちなみだって、世話になったろ」
 魚型の醤油差しの赤い口を、白銀のデコラティブな付け爪で器用に外し、紙皿に数滴垂らす。わさびの小袋をふたつみっつ破り、真いかに存分に塗りたくる。真いかは絶叫した。
「痛い! 沁みる! こんな死に方は、いやだあ!」
「おまえはもう死んでいる」
 まぐろが、割りばしでつままれた真いかにツッコミを入れるも、そのバリトンの美声は至って真面目だった。
「ユーは、デッド!」
 真いかは、反駁する間もなく綾子に丸呑みにされた。噛まないんだ、と、内気な真鯛が身を青くする。唾を飲み込んだのは中トロだった。生きていたら、綾子に精子をふりかけたにちがいない。
「マジで、噛まないよね、あんた」
 綾子に呆れた視線を向けながら、ちなみの割りばしは中トロに伸びる。となりにいた中トロが、別の意味で唾を飲み込む様子がうかがえた。恍惚の表情が、シュウっと消え入る音が聞こえた気がした。
「中トロ!」
 思わず、その名を呼ぶ。そんなほたてに、綾子を求めたやわらかな身が、切なそうに震えた。
「合掌」
 まぐろが、仲間の無念を悼む。醤油を数滴垂らされた中トロは、気だるげな巨乳の体内へと入っていった。ゆっくりと噛みしだかれ、セクシーな喉元を通ってゆく。クチャラーだ、とたまご焼がつぶやく。
「おしゃれじゃない」
 たまご焼の好みは、おしゃれな人。バンダナを頭に巻き、上から帽子をかぶるような、そんなおしゃれな人が大好きだと、ほたてたちに告白した。ぷるぷると体を震わせ、軍艦巻に憧れています、と軍艦三種に告げるも、かに身に鼻で笑われた。
「ないものに憧れて、一体なんになるんだい?」
 ほたては、かに身だけは好きになれそうになかった。
「でも、僕、たまご焼でよかったとも思うんです」
 かに身に嘲笑われても、たまご焼はうっとりとした表情で、彼の右にズラリと並ぶ、軍艦巻たちを見つめる。
「少しだけ、海苔を巻いてもらえましたから」
 かに身だけは、くだらない、といった表情で、頭に乗せられたきゅうりを深く差し直した。そんなかに身にも、好みを聞いている。彼の出身は、境港だそうだ。市民の人柄もよく、住みやすい街。そう前置きして、彼は言い放った。
「人間なんかに食べられたいだなんて、魯鈍にほどがある」
 寿司ネタたちの一縷の望みを、『魯鈍』という小難しい言葉で一蹴する。たまご焼が「ろどん、って、うどんのことですか?」と、左隅の軍艦ねぎまぐろに尋ねる。否。丸亀製麺にあらず。軍艦ねぎまぐろは、身を一かけ、容器にこぼした。「うどんは、イングリッシュでも、うどんさ!」サーモンが、なぜか誇らしげにあとを続ける。「ハワイにもあるのさ、丸亀製麺! ローソンもね!」
「さ、どんどん食べるよ!」
 綾子の熱い視線は、まぐろに注がれているように思われた。まいったな。バリトンボイスから、ハリが失われる。
 まぐろの好みは、非常にわかりやすかった。
「巨乳の、若い女がいい」
 理想のサイズはFカップ。つまり、まぐろにとって、ちなみは理想の女性だった。ちなみは、年も三十路前後といったところ。まぐろのタイプは決して、年増の綾子ではなかった。
「綾子は、じゃんけんにおいて精強とみた」
 軍艦ねぎまぐろが、となりから、いくらを一粒わけてもらっている。軍艦ねぎまぐろもまた、ちなみ狙いだった。聖母マリアのような、慈悲深い、母なる存在。マザコンを告白した彼は、少なくも綾子にあらず、と、ちなみ派に回った。
 しかし、じゃんけんの二回戦は、すんなりとは始まらなかった。「ちょ、おしっこ」ちなみが席を立ち、お清め室から出ていってしまったからだ。「うんちょだな」綾子はそうひとりごち、目玉おやじのトートバッグからスマホを取り出した。マンガアプリをおもむろに立ち上げる。
「排泄ごときに移動が要用の、人類の、げに面妖なことよ」
 となりのいくらが「げに、げに」ニタリと笑い、軍艦ねぎまぐろの真似をする。
「最近は、ウォシュレットなる装置で洗うそうですよ。ふふ」
 それを聞いた上穴子が「洗う、ねえ」と、人間の股間を想像している。「水生になればいいのにねえ」
 綾子は無料で読めるマンガ一覧から、エロそうな表紙をタップした。かに身が、うんと身を乗り出す。人間の交尾に、青年として興味があるようだった。
「死を、選びたいわ」
 赤えびの声は、消え入りそうに小さかった。
「私、あんな女たちに食べられるのはごめんよ」
 白くぷりぷりとした身を揺さぶり、となりの、空いた空白を見つめる。そこは、真いかのいた場所だった。
 赤えびは、「悪い女が好きなの」と、タイプを語った。彼女の出身はアルゼンチン。アルゼンチンには、エビータという有名な女性がいるそうだ。エビータに、憧れてるの。身をやや赤らめ、赤えびはそう言った。売春婦から女優になり、ファーストレディになった。決して、潔白ではないわ。でも、したたかでうつくしい。私は、そんな人に食べられたいの。
 そんな赤えびの好きそうな女性が、別卓にいた。
「俺たちは、もう死んでいる」
 まぐろは、その類のツッコミだけは欠かせないようだった。案外と、お笑いが好きなのかもしれない。声だって、麒麟の川島に似せているように思える。ほたては、まぐろとコンビを組んだ姿を想像してみる。まぐろの赤身と、ほたての白。コンビ名は『紅白海合戦』にしよう。
「それなんですけど」
 たまご焼が、身をぷるんと鳴らし、少し剥がれた海苔で挙手する。
「僕らって、どうやって死んだんでしたっけ?」
 場が、しん、とした。
「みんなは覚えてますか? 死んだときのこと。僕は全然、覚えてないんですけど」
 たまご焼は、黄色の体を純真無垢にかがやかせる。鶏卵は、無精卵。生も死も通過しない。それを、たまご焼自身が理解していないのだと思うも、だれもが答えに窮した。ここは、スルーするすべきか。
「たまご焼。あんたはそもそもさ」
 姉御肌の上穴子が、気まずい沈黙を破る。言いにくそうに、憐れむように、細い海苔に巻かれたたまご焼を見やる。
「そもそも、生まれることすら、なかったんだよ」
「え?」
 たまご焼は、人間でいえば、口をぽっかりと開けたようになった。
「え? じゃないよ。あんた、無精卵だろう?」
「無精卵は、孵化しない」
 まぐろは、死んでもいないたまご焼にだけはツッコミを入れられない。たまご焼は、「無精卵、孵化しない」何度も繰り返し復唱する。生まれない。死なない。
 やがて、たまご焼は、ある素朴な疑問を持ち出した。
「じゃあ、なんで僕、みんなとこうして言葉を交わせてるのでしょうか?」
 全員が、一斉に顔を見合わせた。
「みんな、生きていたから言葉を交わせているんですよね? 僕は生まれもしないのに、なぜ、話せているんでしょうか」
 言われてみれば、確かに。ほたてたちは議論を交わした。
「油かねえ」
 上穴子の意見は押しが弱い。たまご焼は、焼かれる前から言葉を持っている。
「否。おそらく寿司職人の五指の温もりゆえであろう」
 軍艦ねぎまぐろの意見に、上穴子が乗る。「握ったら魂が宿る的なことかい?」あり得そうだが、握られる前からたまご焼は言葉を交わせていたから、それも違う。
「海苔じゃないかしら? 海苔も、生きていたのだから」
 赤えびの意見も違う。たまご焼には、液卵時代からの記憶がある。
「だとしたら、私たちはこの身を醤油や調理酒で穢されつつ、海苔とも運命を共有していることになる? うふふ」
 いくらの言い分はあり得るが、本題からは逸れている。
「そもそも、いくらくんだって、この世に生を受けちゃいないじゃないか。君だって、卵なのだろう? 君は、どうなんだい?」
 かに身が、いけすかない笑みを浮かべつつも、なかなか的を得た質問を投げかける。いくらは、ふふ、と笑いながらも、答えにやや窮している。
 卵黄に魂が宿る説、そもそも、まぐろやサーモンなどの切り身組は、体の一部なのになぜ独立した意識があるのか、等々。
 侃侃諤諤、論じ合ううちに、ちなみが戻ってきた。
 両手に、汗をかいた瓶ビールを握っている。
「うんちょくさ」
 綾子は、下品さを隠さない。ちなみもちなみで「うんちサプリ最高」スッキリした面持ちで着席する。気持ち、四人家族の方から、冷たい視線が注ぎ込まれた気がした。ほたては、このお清め室に着いたときから、四人家族の、なにかをぶつぶつとつぶやく老婆が気になってならない。
 うるさい、という意味ではない。
 さみしいのだろうか。
 テーブルの上には、空き瓶四本と、未開栓の瓶ビールが二本。
「じゃーんけーん」
 はじまった。二回戦。だれよりも、まぐろが身をピンと伸ばす。軍艦ねぎまぐろも、さらに一粒、いくらを乗せた。
「ぽん!」
 綾子はグー。ちなみはパー。ちなみが勝った。しかし、まぐろはなおも緊張している。ここでちなみがまぐろを選ばなければ、まぐろは綾子に食われる。
 そういえば、最初はグー、しないんですね。たまご焼のつぶやく間に、ちなみは、つまんだ。
 まぐろを。
「あー、あたしのまぐろ!」
 まぐろ二種を平らげたちなみに、綾子が抗議する。くちゃ、くちゃ、と音を立て、まぐろは無言で旅立った。
「負けたほうが悪いんじゃん」
 まぐろを、ぬるまったビールで流し込む。セクシーな喉仏が上下に動き、まぐろが食道を伝い、胃袋へ落ちたことを伝える。後攻の綾子は、次を選ぶ前に、汗をかいた瓶ビールのふたをオープナーで開ける。ぷしゅ、と、いい音が、室内に響き渡る。
「つーか、なんでこんなときにエロマンガ読んでんだよ」
 ちなみの視線の先には、開きっぱなしのマンガが、男女がもつれ合うシーンで固まっている。
「森さんのお通夜にエロ抜きはないない」
 ほたてはまたも、四人家族からの冷たい視線を感じる。綾子はしっかりと冷やされたビールを、自分ではなく、ちなみの空いたグラスに注ぐ。
「エロ動画見すぎて、かんたんスマホがフリーズしてたの、マジウケるんだけど」
 綾子いわく、故人の森さんは、変なサイトを開いたら、エロ動画が次々とポップアップされて、消せなくなったのだそうだ。「業ですね。ふふ」いくらが故人を笑うも、綾子の割りばしが伸びてきたので、粒をぷるりと震わせた。しかし、ちがった。
 いくらの右となり。
「やむなし」
 軍艦ねぎまぐろが、容器を離れ、綾子の紙皿の上に立った。頭の上には、二粒のいくら。
「これはこれは。やられましたね。ふふ」
 いくらは、軍艦ねぎまぐろに、早い段階でアドヴァイスをしていた。「私たちを乗せれば、きらわれるかもしれませんよ」いわく、宅配のいくらは不人気とのことだった。しかし、まぐろ勢はやはり強かった。
 いくらを乗せたねぎまぐろに、わさびが塗りたくられる。それを見つめながら、ちなみがスマホを取り出す。
「いくらくっついててマジ尊い」
 軍艦ねぎまぐろの憐れな姿は、ちなみによってインスタにアップされた。
「そういえばさあ」
 軍艦ねぎまぐろをも丸呑みにした綾子は、スマホをいじるちなみの左乳房を、醤油のついた割りばしで突っつく。
「なんで『ちなみ』って名乗ってんの?」
 ほたてたちは、顔を見合わせた。
「だいぶ前から謎だったんだけどさあ。だってあんた、本名『キメラ』じゃん」
 キメラ!
 ほたてたちも、おそらくは周囲の数少ない参列客も、同じ単語を心で叫んだ。キメラ。ほたては、横断された体をパタパタとはためかせた。生きていれば、貝殻の裏に、このネタを書き込んでおけたのに。ほたては、死んでしまったことを心底悔やんだ。生前のほたての貝殻には、人間の小ネタがびっしりと書き込まれてあった。今ごろ、粉々にされて、リサイクルされているだろう。
 ずいぶんな親だねえ。呆れる上穴子に、たまご焼が身を傾げた。
「キメラってなんですか?」
 たまご焼の、無知、無垢な様子がかわいくて仕方ないのだろう。上穴子は、ふわふわの身を酢飯にこすりつける。
「怪獣だよ」
 かわいい男子にたれを舐め取られたら、いくらでも死ねる。上穴子は、自身のフェチを熱く語った。赤楚衛二、千葉雄大、伊野尾慧。舐められたいタレントの名を次々と挙げ、ふわふわなその身を悶えさせていた。佐藤健も捨てがたいらしい。
 キメラことちなみが、ビールを一気に煽った。ちなみは、やはり、本名を気に入ってはいない様子だ。顔が、不機嫌を最大限に表している。少し、不細工になっている。
「ねえ、キメラ。キメラー。キメラキメラ、キー」
「うっさいなあ、ヨキコ!」
 ほたては、自分がかつていた、急速冷凍庫のことを想起した。ちなみの本名はキメラ。綾子の本名はヨキコ。今、この現場は、真夏とは思えないほど冷たい。氷点下零度だ。思わずつぶやく。
「ヨキコ、って、どんな字書くんだ?」
 ネタ帳、もとい、貝殻が本当に恋しかった。この二人は、本名でコンビを組んだら、それだけでもウケそうだ。コンビ名は『キメラとヨキコ』。それでじゅうぶん。ほたては、二人に嫉妬した。
「森さんが『ちなみ』って名づけたんだよ」
 ちなみは、綾子の前の瓶ビールを奪い取り、空いたグラスになみなみと注ぐ。ああ、わかった! 綾子がテーブルを、バン、と叩いた。痛そうだ。
「喝采だ」
 いつものように幕が開き。空気を読まず、気持ちよさげに歌いだす。綾子の低い声は、その曲にマッチしていた。ほたてにも聞き覚えがある曲だ。
「ちあきなおみ、僕好きです」
 真鯛は、バイクの中でも同じことを言った。ちあきなおみが好きなんです。あの人に会いたい。あの人に食べられたい。気高く、一途で、カリスマ性がある人に、どうか僕を食べてもらいたい。このテーブルに供されたとき、もっとも激しい拒絶反応を見せたのも、真鯛だった。こんな低俗な人たち、いやです。そして、別卓のほうを、ずっと、飽きずに見つめている。
「森さん、好きだったもんね。ちあきなおみ」
 綾子の言葉に、真鯛が身をよじらせる。ちあきなおみ、という言葉だけで、彼は放精できるのだろう。ほたてにも、そういう人が一人いる。
 不機嫌なちなみのグラスに、またもビールを注ぎ足す。綾子は下品なようで、意外と面倒見がいい。
「ていうか、綾子はなんで『ヨキコ』なんだよ?」
「逆を聞くな、バカキメラ!」
 どうやら『良い子』と書いて、ヨキコと読むらしい。「グッジョブ! ブラボー!」サーモンは酢飯をパチパチと叩き、そのネーミングセンスを高く評価した。上穴子も、悪くないねえ、とつぶやく。ほたてには、微妙だった。ヨシコのほうが好きだ。
「むしろ、キメラのほうが気になるわ」
 赤えびは、ちなみに憐れみの視線を送る。ほたてたちは、思い思いに首肯した。
 しかしそれについては言及されることなく、三回戦は始まった。
「じゃんけんぽん! あいこでしょ! あいこでしょ!」
 グー。パー。グー。なかなか決まらない。
「二人でじゃんけんして、あいこが五回続く確率は、数百分の一ですね。ふふ」
 六度目で、勝負あった。
「どうしようっかなあ」
 綾子は容器を、舐めるように見渡した。残された寿司ネタたちの中で、別に綾子でもいいと思っているのは、ほたてとサーモンだけだった。
 フィーメイルなら、だれだっていいのさ。
 バイクの中で、サーモンは白い筋を浮き立たせた。ボクのフェチは、この世のオール・フィーメイル。フィーメイルはオール、ヴィーナスさ!
 ほたては、サーモンのフェチを回想しながら、ぐるりと周りを見渡す。ほたてとサーモン以外は、現実逃避をするかのように、別卓に熱い視線を注いでいる。
「決めた」
 綾子の割りばしが、両サイドの空いた、真鯛に向いた。
「いやだ」
 真鯛が、必死の抵抗を試みる。
「僕は、あの子じゃなきゃ、いやだ!」
 別卓で、ひとりぽつりと座り、寿司の容器を開けてもいない女性。真鯛はずっと、その女性に首っ丈だった。ドクターマーチンのホールブーツを履き、ジャケットを肩で羽織るその姿は、真鯛のフェチにふさわしい、ちあきなおみに似た気高さを匂わせている。
「暑くないんでしょうか」
 たまご焼が、ドクターマーチンの厚着を心配するうちに、真鯛は、綾子の胃袋に収まった。
「わさび、つけなかったわ」
 真鯛の最期を振り返った赤えびは、ちなみの割りばしが自分に伸びるのを、凛とした表情で受け入れる。
「さよなら」
 その言葉は、ほたてたちと、ドクターマーチンに向けられた。エビータが好きだった赤えびもまた、ドクターマーチンばかりを見つめていた。
「やれ、こっち側ばかりが残ったねえ」
 上穴子は、少し乾き始めていた。上段は、右から上穴子、サーモン、ほたて。三者並んで残された。下段は、右からひとつ空けて、いくら、かに身、たまご焼。こちらも三者並んで残された。容器の左半分が、空白地帯になった。
「憐れみたまえ、我が神よ!」
 急に、サーモンが叫びだした。
「ボクたちは、もっとグレイトなところで食されるべきなんだ。グレイト・ワールド。もしくは、グレイト・ユニヴァース! ボクたちは、スター。ボクは、ベテルギウス! スターこそがボク、ボクこそがスターの中のスター。この世でもっとも光りかがやくのは、一等星のこのボクさ!」
 サーモンは、どうやら気がおかしくなったらしかった。元々わかりにくいが、なにが言いたいのかすらさっぱりとわからない。いくらが、ふふ、と、その痴態を笑う。
「ちなみに、『グレイト・ワールド』というショッピングモールが、シンガポールにありますよ。ふふ」
 いくらも、サーモン同様に博識であるらしかった。
 それから、二十分が過ぎた。じゃんけんの四回戦は、いつまで経っても始まらない。ほたてたちは、身が少しずつ乾いてゆくのを、絶望しながら耐えた。なぜなら、綾子とちなみがいなくなってしまったからだ。
「故人と酒を酌み交わす。いいですね、ふふ」
 森さんと呑みに行こう。綾子の提案で、二人はお清め室から出ていった。それからは、空き瓶も、ほたてたちも、時を忘れたかのように、変わらない風景を演出し続けている。別卓のドクターマーチンも、似たような様子だった。微動だにしない。寿司を食べる気配もない。さらに別卓の四人家族も、とくに変わり映えしない。老婆は変わらず、なにかをつぶやいている。赤ん坊も、ベビーカーの中ですやすやと眠っているようだった。ほたても、正直なところ、赤ん坊のように眠かった。
 人間も、魚介類も、夜は眠い。死んでいても、夜にはやはり眠たくなる。このままじゃ、寿司ネタなだけに、寝たまま食べられてしまいそうだ。
 ほたては、遺言を残しておくことにした。
「サーモン! おまえはそのまま、気障キザったらしくいけよ」
 ほたての突然の発言に、耳を疑ったのだろう。魚だけにぎょっとして、となりのほたてを振り返った。
「ユー、ワット・アップ?」
「おまえはモテる。究極のモテ男だ。次こそは食べてもらえるさ。女ならだれでもいいという、懐の深さも奥ゆかしいぜ」
 サーモンのピンクが赤らみを帯びた。驚いたせいか、身が少し、酢飯からズレていた。もしかしたら彼は、あまり褒められたことがなかったのかもしれない。「ただの女たらしじゃないか」呆れ顔の上穴子にも、ほたては声をかける。
「上穴子。おまえは、うまい。女としても、とてもクールだ! 俺が保証するぜ。間違いない」
 あんたに言われてもなんも嬉しかないよ。上穴子はぼやきながらも、サーモンの身を直してやっている。優しい女だ。俺は好きだぜ。そう付け足すと、ふわふわな身をきゅっと引き締めた。上穴子界の渡辺直美だ。そう言うと、身をとろんとさせた。
「たまご焼! おまえはいつかちゃんと生まれられる。その日までに男を磨いとけよ。女かもしれないけどな」
 素直なたまご焼は「はい、がんばります!」そう元気よく答えた。ほたては、たまご焼にはなんの心配もしていない。
「かに身!」
 呼ばれたかに身は、ほたてのほうを見向きもしない。
「おまえは、食べられる前にその海苔をちゃんと巻け。さっきからはだけてるぞ。イケメンが台なしじゃねえか」
 それがかっこいいんですけどね。たまご焼は、かに身のはだけた海苔をじっと見つめ、たまご肌をテカらせる。かに身は、なにも言わない。海苔を直しもしない。むしろ、少し剥いだ。
「あとは、いくら! おまえらも、ちゃんとモテてるんだから安心しろ。その笑い方も、かっこいいぜ」
 言われたいくらは、ふふ、と笑い、式場のほうを見つめる。
「私たちは、生まれ変わってからモテたいものですね」
 ほたては、そのようなことを、おおむね言ったらしい。いくらが言うには、渡辺直美のあたりから、ほたてはうとうと身を揺らし、いくらへのアドヴァイスが終わるやいなや、いびきをかき始めたそうだ。目を覚ますと、お清め室の様子は一変していた。
「まったく、この大騒ぎの中でよくも眠れたものですね。ふふ」
 プラスチック容器の中には、ほたてと、いくらだけが残されていた。ほたての目の前では、ちなみがテーブルにうつ伏せている。室内では、警察官と葬儀場の関係者が、ひっきりなしに出入りしている。一体、なにが起きたのか。ほたてが眠っていた小一時間の顛末を、いくらがかいつまんで話してくれた。

 綾子さんとちなみさんが、お清め室に戻ってきました。すっかり、泥酔していました。とはいえ、私たちは、式場のほうから盛んに聞こえるお二人の嬌声や、卑猥な動画の音声を耳にしていましたから、なんとなく覚悟はしていました。逃げられるものなら逃げたかったですね。
「ちょ、おならすんな! あははは」
 ちなみさんはストロングゼロの、ロング缶を手にしていました。後続の綾子さんも、同じものを両手に掲げていました。二人の酔っ払いと入れ替わるかのように、ドクターマーチンさんが席を立ちました。
「森さんのヴァーカ! あはは」
 綾子さんの顔は、ゆでたこのように真っ赤になっていました。ああいう歩き方を、千鳥足というのでしょう。蛇行しながらテーブルに着き、椅子を壊さんばかりに腰かけると、パンプスを脱ぎ捨てる音が、テーブルの下から聞こえました。
「ちょ、棺桶の前でエロ動画、爆音で垂れ流すとか、マジでエモいんだけど!」
 ちなみさんもまた、酔い潰れ、より下品になっていました。地肌を透かしたストッキングが、なぜかビリビリに破れていました。倒れ込むように着席したとき、ストロングゼロがこちらに倒れてきて、私たちはあやうく酒漬けになるところでした。
「ちょ、お寿司、バリ乾いてんじゃん」
 乾いた私たちに、ちなみさんは興味を示しませんでした。私たちいくらも、濁りきっていました。
「でも、おなか空いたし、さっさと食おうぜ」
 じゃんけんのことなど、もはや忘却の彼方。綾子さんはかに身さんを、ちなみさんはサーモンさんをお皿に取りました。世の中とは、奇妙な縁を持つものですね。かに身さんとサーモンさんは、綾子さんたちが離席しているあいだに、ちょっとしたケンカをしていたんです。あまりにくだらない、痴話ゲンカさながらでした。人間のせいで鮭が日本から消えようとしているのに、そんな人間をどうして許せるのか。ボクはノルウェー育ちだから、ノー・プロブレム。そんなケンカの末、仲よく、下品な女たちの栄養素となり果てたのですから、笑ってしまいます。しかし、彼らの最期は悲惨でした。
 ちなみさんは、高らかに笑いながら、割りばしをグーで握ると、サーモンさんの身に突き刺しました。
「サーモン!」
「サーモンさん!」
 私たちの叫びもむなしく、ペロリ、酢飯から剥がされたサーモンさんは、でんでん太鼓のように、左右に振り回されました。
「もう、お寿司いらなくない? いらなくない?」
 振り回され、原型をとどめなくなったサーモンさんの身は、テーブルへと、力なく落下しました。「あ、落ちた」つまみあげられ、酢飯とともにこぶしで潰され、手汗とともに召されました。
 言い忘れていましたが、お二人は戻ってきたあと、となり合わせに着席しました。ちなみさんがサーモンをいじる横で、綾子さんはわさびの小袋をみっつ破り、かに身さんに塗りたくりました。まんべんなく塗られ、かに身さんは全身、わさび色になりました。
「人間など、滅びてしまえ」
 そうしてかに身さんは、綾子さんに丸呑みにされました。
 お寿司はもういらない。そう言っていたちなみさんは、スマホを立てかけ、エロ動画を見始めました。部屋中に、人間の交尾の音が響き渡ります。四人家族が、そそくさと離席の準備を始めました。綾子さんは、もとはちなみさんの分だった、未開封の『人気の寿司ネタ十二種セット』のふたを開け、なぜか上穴子を食べました。「なんで、そっちから食べるんだい」上穴子さんが、たれをぽつんと、容器に落としました。綾子さんは、立て続けに、サーモン、真鯛、赤えびを丸呑みします。私たちは、廃棄を確信しました。
 そこに、ドクターマーチンさんが戻ってきました。席を外してから、五分弱といったところでしたでしょうか。四人家族が、あわてて部屋を飛び出してゆきました。
 ドクターマーチンさんは、拳銃を手にしていたんです。

「え?」
 ほたては、眠気の残る貝柱を、酢飯にゴシゴシこすり合わせた。ほたてたちのテーブルの前では大勢の警察官が集まり、初動捜査なるものを始めていた。テーブルにうつ伏せたまま、ピクリとも動かないちなみを、カメラで盛んに収めている。続けて、ほたてたちのあられもない姿にも、ファインダーが向けられた。アンロックされたままのちなみのスマホから、突然、女の、大げさな喘ぎ声が聞こえてきた。交尾だ。「だれか、それを停止させろ」遠くからの野太い声に、警察官の太くゴツゴツとした人差し指が、画面をタップするのがわかる。殺されても仕方ないですね。そうぼやいた若い警察官が、上官から注意を受けている。死者に礼儀を払え。その言葉に、ほたては身が青ざめるのを自覚した。
「ちなみ、死んでるのか?」
 ほたては、この光景こそが、夢のように思えた。いくら酢飯に貝柱をこすりつけても、景色はまったく変わりそうにない。これは、現実。殺人事件に遭遇するほたてなど、前代未聞だった。
 さきほどのいくらの発言が、より強く、ほたての心に焼きついた。よくも、眠れたものですね。
 本当だ。
「はい。ドクターマーチンさんが、綾子さんたちの背後に立ち、振り返ったちなみさんの頭をズバンと撃ち抜きました。人間は、頭を撃たれたら死ぬんですね」
 これは、ちなみさんの返り血です。言われて見てみると、赤黒い液体が、いくらの赤い卵にべったりとへばりついている。
「綾子さんも、逃げようとしましたが、前述のとおり、千鳥足でしたからね。コロン、と転んでしまいました」
 マスクを着用した検死官たちが、テーブルの下でも作業している様子がうかがえる。
「この様子だと、綾子さんも亡くなったようですね」
「そんな」
 なんてことだ。ほたてには、やはりこの光景が信じられない。人の命が、こんなにあっけないものだなんて。あんなに活きがよかったのに、目の前のちなみは、もう動かない。
「ときに、ほたてさん」
 いくらは、どこまでも冷静だった。
「なぜ、この場に上穴子さんとたまご焼さんがいないか。それが、この事件の最後のパーツなんですが」
 言われてみれば、上穴子とたまご焼の姿が消えていた。さきほどのいくらの証言だと、かに身とサーモンが悲惨な末路をたどったあとに、この事件は起きた。
 いくらは、ふふ、と笑うと、容器に残された、上穴子のたれを見つめた。
「ドクターマーチンさんが、食べたんです」
 ほたては、耳を疑った。
「綾子さんとちなみさんに銃を向けたあと、パクパク、と食べたんです。血まみれになった、上穴子さんとたまご焼さんをね」
 寝ててよかった。ほたては、自分の身勝手な睡眠欲に深く感謝した。そんなホラーなシーンを見てしまったあかつきには、横断された貝柱をバタバタさせて、この部屋から逃げ出したにちがいない。魚介類でも、共食いをする種があったりさまざまだが、ほたては、そんなのはごめんだった。仲間の体液を舐めたりはできない。ただただ、気持ち悪い。
「私たちも、驚いて、ついうっかり、魚卵をこぼしてしまいましたよ」
 こう見えて、少しは動揺したのです。自分自身に呆れるように、ふふ、と笑う。
「私たちも血を浴びたのに、色合い的に気づかなかったのでしょうね。ほたてさんの貝柱も、いたってきれいなものです。ドクターマーチンさんは、血がついたものだけをきれいに食べて、部屋を立ち去りました」
 思わず、ドクターマーチンが座っていた席へと、視線を向ける。手つかずの寿司折のまわりを、鑑識が丹念に調べている様子が見てとれた。しかし、ほたてが知り得るかぎり、ドクターマーチンはテーブルにも、瓶ビールにも、寿司折にも手を触れていなかった。彼女にまつわる情報は、なにも検出されないだろう。
「なんで、こんなことを」
 本当に、信じられない。綾子とちなみがうるさくて、注意するならまだしも。
「食べるわけでもないのに、なぜ、わざわざ殺したんだ?」
 まったくもって、不可解だった。ほたてのはてなに、「げに、げに」そう繰り返し、いくらは笑った。それは、綾子に食べられた、軍艦ねぎまぐろの口真似だった。
「なんの栄養にもならず、無意味ですよね。ふふ」
 無意味、という言葉が、ほたてに痛烈に突き刺さった。初めて知った直射日光よりも、初めて知った蛍光灯の光よりも痛い。
 ほたても、綾子たちとなんら変わらない。もうこの状況では、だれの栄養にもなれない。
 生きてきた、意味が消えた。
「俺たちも、無意味だ」
 噴火湾で、四年間、生きた。死んでからは、数ヶ月が過ぎた。ほたては、食べられるためだけに生まれてきた。プランクトンを食べまくった。誇り高く、命を謳歌したつもりだった。しかし、そのすべてが、意味をなさないものになった。養殖業者のたゆみない労力をも、棒に振ることになった。悔しい。悲しい。恨みがましい。どうにもならない。溢れ出るあまたの心情は、貝毒をみずから飲み込んだ、そんな気分だった。感情があるようで、麻痺して、動かない。人が、人を殺す。そんな事態で、夢にまで見た本懐を遂げられなくなるとは思わなかった。
「むなしいものですね」
 いくらもそうつぶやき、きっちりと巻かれていた海苔を、かに身のように、少しはだけさせた。
「しかし、私たちだけでなく、綾子さんたちに食べられた同志も、さぞかしや無念でしょうね」
 ほたては、ハッとさせられた。
「消化され、栄養になる前に、母体が死んだのですから」
 真いか、中トロ、まぐろ、軍艦ねぎまぐろ、真鯛、赤えび、サーモン、かに身。彼らもまた、無意味だった。無意味な生涯に終わってしまった。
 たまご焼と、上穴子。
 彼らだけは、犯罪者の血肉となって、機能する。
「さて。私たちはこれから鑑識に回されて、こわい目に遭うのでしょうかね」
 ほたては、貝柱をこわばらせた。
「綾子さんたちに食べられるより、いやですね。ふふ」
 いくらは、ふだんどおりに笑った。しかし、粒は濁りきり、ほたてがいくら見つめても、その表情をうかがい知ることはできそうになかった。ほたては、バイクでのできごとを回想する。いくらは、自身のフェチを『メイド』だと明言した。
「猫耳をつけたメイドが、いいんです」
 いくらは、だれよりも早く、自身のフェチを、嬉々として語った。あのときはつややかだった粒を、ポップコーンのように高々と弾けさせた。
「仕事帰りのふくよかな年長の猫耳メイドに、『もう、家まで待ちきれないんだからね!』なんて言われながら、六町公園で食べられたいものです。ストロングゼロを片手に、萌え萌えにゃんにゃんしながら召し上がっていただけたら。これは、奉仕精神です。ヲタ冥利に尽きますね。ふふ」
 六町公園って、どこだ?
 その疑問とともに、ほたては、いくらのフェチを明確に覚えていた。
「いくらは、今も、メイドに食べられたいか?」
 尋ねるも、答えはなかった。大きな影が、ほたてたちを覆い隠したからだ。見上げると、見るからに若そうな女性の鑑識官が、たわわな乳房を近づけ、ほたてたちのプラスチック容器を持ち上げようとしていた。つぶらな両目が透明なふたを見つけて、パチンと閉じる。それは、ほたてたちの、世界が閉じられた音だった。
「そろそろ、時間のようですね」
 生涯の、最後に見るであろう風景。
 ほたては、うんと身を乗り出した。床に転がった綾子は、検死官に取り囲まれ、よく見えなかった。ちなみにも検死官が群がっていたが、額の銃創が、ありありと見えた。
 これが、人の死か。
 やはりまだ、にわかには信じられない。人間が死ぬだなんて、考えたこともなかった。
「ところで、あなたのフェチを、私たちはまだ聞いていませんよ」
 ほたてたちは、葬儀場を出た。
「あなたはあのとき、なにもおっしゃいませんでしたが、どのような方に、食べられたかったのですか?」
 警察車両のヘッドライトが、煌々とほたてたちを突き刺す。どんな光よりもまぶしく、痛かった。
「ちなみに私たちは、やはり、猫耳メイドがいいです」
 ふふ。容器の中を転がりながら笑ういくらに、ほたてもつられて笑った。ふふ、と笑ってみると、深海のくらがりのような絶望も、幾分かやわらぐような気がした。
 この先、自分たちがどうなるか、こわくてたまらない。
 でも、こんなふうに、笑っていよう。
 甘美な夢に酔いしれて、最後まで笑っていよう。ほたては、外を見るのをやめた。
 彼女だって、きっと、そうするはずだ。
 俺のフェチ。
「ナオミ・ワタナベだよ」
 ほたては、横断された貝柱を、きゅっと合わせた。真夏の外気で火照った身をすり合わせ、その姿を、最大限に想像する。
 一目見たときから、好きだった。

「俺は、直美を愛してる」


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