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無言 25

言語訓練室に入ると、黄色い花が咲いていた。尚子が持ってきたという薔薇。前に来たときにはまだ蕾だったはずだが。花が開くとこんなにも印象がかわるものか。白い殺風景な空間に華やかな空気が漂う。

「こ、ん、に、ち、わ。」

いつもと違う部屋の雰囲気に少しとまどいながら、だからと言って僕は変わることなく、いつものようにゆっくり挨拶をする。

「こんにちわ。」               白衣の先生が迎えてくれた。僕の視線の先にある花を見て

「咲いてきましたよ。尚子さんの薔薇。キレイですね。」 
と目を細めた。                   

小さく咲く淡い黄色の花。まだ蕾が開いたところだろうか。何枚とある花びらは開ききることなく幾重にも重なって、その重なりが作るグラデーションの繊細な美しさに見とれてしまう。

「キ、レ、イ、です。」

先生が言った言葉をゆっくり繰り返す。

暑さもやわらいできて、道端のコスモスが涼しげな葉っぱの先に濃淡様々なピンク色の花を咲かせるようになったある日。尚子はふわっと高い秋の空にすいこまれるように旅立ってしまった。薔薇に囲まれ、穏やかな表情で目を閉じている彼女を、小さな身体をいっぱいに伸ばして覗きこむように見ていたよっくんは「おじいちゃん。おばあちゃんキレイだね。」 「お花のベッドにおばあちゃんは寝てるんだね。」と僕の方にふりかえり、ニコッと笑った。おばあちゃんは二度と目を覚ますことがないことを理解するのにはもう少し時間がかかるかもしれない。3歳の孫から向けられた屈託のない笑顔に答えるべく、僕は笑顔を作ろうと試みてみる。あのとき、僕は上手に笑えていただろうか。
訓練室の薔薇は、あの日の記憶を呼び起こさせた。

「カ、ナ、シ、イ。」

自分の気持ちを言葉にする。今まで押し込めてきた思いの蓋を開けてみた。慎重に間違えないように、一言一言発したそれは白い空間にすいこまれていく。黄色い薔薇がコクリと揺れた気がした。

「悲しいですね。」     

先生も小さくうなずいた。

尚子がいなくなって2週間。僕は訓練を休んでいた。きっと皆が心配しているだろうとは思っていたけれど、全てを知っている病院のスタッフの前でどんな顔をしていいのかがわからず。家を出ることが出来なかったのだ。朝起きて、今日こそ行こうと着替えるのだが、迎えにきてくれる送迎担当の運転手さんから電話が入ると、やっぱり行きたくない気持ちがフツフツと湧いてきて、
「ご、め、ん、な、さ、い。」
と携帯を持ったまま頭を下げた。向こうからは見えないはずだが、きっと僕が来るのを待っているスタッフさんに申し訳なくて頭を下げた。

「わかりました。お休みですね。伝えます。」電話の向こうから聞こえる言葉にうなずくように何度も頭を下げて電話を切る。何日かこのやりとりを続けていたら、僕はまた自分を閉ざしてしまう気がして怖くなった。無理やりにでも扉を開かないとこのまま一人でひたすら誰ともかかわることのない時間に埋もれてしまう。
どんな顔をすればいいか、何を話せばいいかわからないし、混乱と不安の渦の中にいるけど、僕の日常に出よう。出なくちゃいけない。

正人からもらったキーホルダーを伸ばして家の鍵を閉め、誰もいない部屋に行ってきます。と心の中でつぶやく2週間ぶりの朝。外の日差しは眩しかった。迎えにきてくれたスタッフは、「おはようございます」といつもと変わらない爽やかさで声をかけてくれた。声を出すと気持ちが溢れそうで、挨拶がわりに僕は深くおじぎをした。





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