無言 23

溢れ出した涙は一体どこへ行くのか。とめどない悲しみはどこへ向かうのか。悲しみの重さは僕の持てる限界を超えてしまい、起き上がることすらも出来なくなってしまった。この感覚はいつぶりだろう。絶望に打ちひしがれて、病院のベッドで泣きはらしたいくつもの夜。あれは随分前のような気がする。
今、病院のベッドにいるのは僕の元嫁。そして僕は、自分の部屋で押しつぶされそうな悲しみの重さと戦っていた。今、必死に生きようとしているのは尚子であり僕ではない。今できること。それは、祈るしかなくて。ただひたすらに祈る。彼女を助けて下さいと。意識がもどりますようにと。その祈りが届く先はどこなのかはわからない。でも、今の僕ができることはそんなことでしかない。

彼女には新しい夫がいて正人がいて孫がいる。僕は本来そこからは外れた所にいる。運命のいたずらがもう一度引き合わせてくれたにせよ、僕は彼女の人生にかかわる人ではないのだ。

「お母さんのことだけど。実は長い間闘病してたんだよ。状態はあんまりよくなくて、今回の入院が最後の入院になるかもしれないんだ。」
僕の部屋の小さなダイニングテーブルで向かい合った正人は僕の顔を見るのがつらそうに、視線を何度もテーブルに落としながら言った。
最後の入院。その言葉が持つ意味を考えられる程には僕の理解力は改善してきているのだろう。考えたくないし、理解もしたくない事ではあるけれど。
「今は、問いかけても応じられない状態で、僕の声が届いているのかもわからないんだけど、一度病院には来てほしいんだ。いいかな?」
「母さんは、僕の気持ちが辛くなければ病気の事はいずれ僕から伝えてほしい。と言ってたんだ。」
「今の父さんの了解もとってあるから気にしないで。」

こんな日が近いうちに来る事を、尚子も正人も知っていたということか。だから会いに来てくれたのか。絶望の縁にいた僕を救いあげてくれたのに、またもう一度僕は希望を失うのか。淡々と大事な話を続ける正人の言葉は途中から遠くに聞こえた。耳鳴りがして、目の前の景色が色を失っていくように遠くなった。

気づけば僕は自分の部屋のベッドに寝かされていた。いつも訪問してくれる看護師さんの顔が目の前にあった。
「大丈夫。ちょっと血圧が下がっちゃったみたいね。最近あんまり眠れてないし、食べてないって言ってたもんね。暑さもあるし疲れてたんだろうね。息子さん。ビックリしたでしょう。大丈夫だからね。」
ふと見ると目に涙を溜めた息子が僕の顔をのぞきこんでいる。
「ごめん。。」
ゆっくり言葉を発すると
息子の目から涙が溢れた。
「いや、僕こそゴメンなさい。突然のことで驚いたよね。」

心配してなかなか帰ろうとしない息子を看護師さんはなだめてくれ、ヘルパーさんに連絡しておくから、明日見にきてくれるから、何かあったら連絡して下さいね。と言って帰っていった。 
静かになった部屋でベッドに横たわって目をつぶる。なぜか強烈に自分が一人であることを寂しいと思った。自分しかいない部屋でカチカチとやけに大きく響く時計の音を聞きながら、悲しみの渦の中にいたら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。




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