無言 31
朝起きると泣いていた。なぜかものすごく辛い夢を見ていた記憶がある。夢の中で大きな声で叫んでいたような気がする。普段は一言を話すにもとんでもなく時間がかかるのに、夢の中の自分はいつも流暢に話していて、起きたときにふと病気が治った気になってしまうが、いざ声を出そうとすると
「え、あ、ん。。。あ、お!おは、よ、う、おは、よ、う。」
こんな具合で、あれは夢でやっぱり話せないんだったんだと悲しくなる。夢の中で辛くて、起きてなお悲しいなんて最悪な一日の始まりだと思いながら出かける準備をする。片手で顔を洗い歯を磨き着替える。靴下を履くのに、病院でスタッフさんが僕用に作ってくれたフックつきの棒を使い、左手と口を使ってパンの袋を開けてトースターでパンを焼く。インスタントのコーヒーを入れて、昨日作ったみそ汁の残りに卵を入れて温めて飲む。
何度も失敗しながらできるようになった一連の動作を手順を間違えることなくひとつひとつこなしていく。そんなことに没頭していたら、辛い夢も悲しい気分で目覚めたことも忘れてしまう。今日は仕事の日で、帰宅したら息子が来ることになっている。すべての準備を終えて家の戸締まりをして出かける8時45分。ドアを明けるとそこに満ちた朝の空気はさわやかな涼しさをまとっていて、ふと見上げた空は青く高くて、思わず僕は空を見上げたまま目を閉じて大きく深呼吸をした。
尚子が旅立ってからもうすぐ1年。あの日の高く晴れた空をふと思い出した。
気持ちよく晴れた秋の日と道に揺れていたコスモス。仕事場まではバスで20分の道のりだ。
バスに揺られて見るコスモスの花。いつの間にか揺れが心地よくて眠たくなってしまう。バスを降りるとゆっくりとそこから歩いて職場である薔薇園を目指す。かつては尚子の職場だった場所。1年後ここで働く自分なんてあの時は想像もしていなかったけど、尚子がつないでくれた糸は今も僕の大事なつながりで生命線。息子、孫、仕事、デイサービス、ヘルパーさん。病気になる前にはつながりようがなかった人達と世界の中で行きている。そして病気になる前にしていた仕事にかかわる人達や友達にはほとんど会うこともなく淡々と日常はすぎていた。杖を片手にバス停から職場まで歩くこと10分。秋薔薇の華やかな香りが迎えてくれる。気持ちいい秋風にただよう香りを大きく吸い込んで
「お、は、ようございます。」
と事務所に入った。
「おはようございます。」
聞き慣れない女性の声が返ってきて、思わず声の方を振り返ると、佐々井先生が立っていた。
「え?え?」
病院の見慣れた服装ではなく、ワンピースを着ていて随分イメージが違うので、思わずもう一度目をこらしてみてみる。
「さ、さ、い、先生ですよね?」
「はい!そうですよ。びっくりしましたか?そんな目を丸くしないで。」
先生は顔をくしゃくしゃにして笑った。
その顔はよく知ってる顔だった。僕の言葉の先生。そうだ尚子と僕をつなげてくれた人でもある。けれど、この薔薇園に来るのは多分はじめてじゃないだろうか。
「うわさの薔薇園にやっと来れました!」
「素敵なところですね。」
あっけにとられてる僕が話せずにいたら
今度はゆっくり話してくれて、いつものように僕が話し出すのを待っている顔になる。
「あ、あ、そう、そうですね。」
精一杯答えると
「ね。ほんとうにそうですね。」
大きく頷いた後
「尚子さんにあいたくてきちゃいました」
「尚子さんの匂いがするー!」
と彼女は言って目を閉じて息をすいこんだ。
そう!薔薇の香りは尚子の香りでもある。
「あ、最近の奥田さんも薔薇の香りですけどね。」
言われて思わず顔が火照る。
ええ歳のおっさんが薔薇の香りって。と思いながら、まあ臭いと言われるよりはマシなのかと思い返す。
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