絶滅へ追いやるナニカ by. 木森 林林
『連鎖』
人は “連鎖” という言葉に対し
最初に考えるのはナニカ
身近な連鎖では『食物連鎖』がある
この連鎖はあらゆる環境において
「頂点捕食者」という存在がおり
その個体数は少なく
絶滅の一途を辿っている
一見すると
この「頂点捕食者」はその環境下において
“支配的な存在” かのようにも見えるが
一概にそうではない
ある日その頂点が絶滅を迎え
この世界から存在しなくなった場合
次にナニが起こるのか
- 頂点捕食者の役割 -
“連鎖” というのは、
「鎖に繋がっている」ような不穏な印象を想像する人もいるかもしれない。
だが『笑いの連鎖』というモノも存在する。
これは科学的な論文があるほど実にユニークな連鎖である。
ワタシも過去20代前半の頃に、
当時は対照的な性格の親しい仲間から世界的に話題となっていた動画を共有され、心を和ませてもらった記憶がある。
たしかに “連鎖” という鎖に繋がっているような一体感は、
鉄の重いイメージも想像するが一概には言えないわけだ。
ただどちらも『連鎖の現象が起きる起源』が存在する。
冒頭で記したように
“頂点捕食者” という食物のサイクルで表すと、
その連鎖の起源の存在は解りやすいと思う。
まずこの生きる世界において動植物はもちろん、
生命体が生きるための栄養やエネルギーを得るためには
全ての存在が『消費者であり生産者』として循環している。
つまり生産者は過去に消費されるモノから新たに生成し、
消費されるモノは生成されたモノから栄養や恩恵を頂くという無限の回転を成している。
「この仕組みこそが世の中の真理だ」
と言ってしまえばそうなのかもしれない。
ただ人間社会を含む動植物が生きる世界で、
そのバランスは少しづつ変化しており現代では危機的状況すら起こり得るとも言われている。
それは “頂点捕食者” が本能的に起こす様々な行動に起因する。
このヒエラルキーのバランスはあらゆる世界で存在し、
その全てが頂点捕食者の在り方で円滑に回り、
また全てが崩壊する恐れを秘めているのだ。
だが各々が生きる世界において、
その全てが "頂点捕食者の本能的な部分が原因か" と言えばそういうわけでもなく、
これらのサイクルを円滑に回すためには
同種族による各々の "生存本能" のバランスもまた重要な役割がある。
断片的に見ると、
とても巧妙で不条理と感じる一面もはらんでいるわけだ。
【頂点捕食者】
- 絶滅へ追いやるナニカ -
日本に生きる者としてこれまで多くの種が絶滅し、
現在も絶滅の危機に瀕している存在も多くいる。
今回の記事ではその一例として
「ニホンオオカミ」を例に挙げる。(以下: “狼” )
なぜ “狼” は絶滅したのか。
この議論は各地域で専門的な研究者も多く、
不明な点も多いとされているため
ワタシはこの分野においては一般人であり、
一人の人間としての視点であえて言うならば
山や自然の生態系において “狼” が担っていた役割を、
“ナニモノか” が乱してしまったのではないか。
そして実は “狼” が担っていた役割は、
野山や「本来の自然」においてとても重要な存在であり
ヒエラルキーのバランスが壊れたことで予期せぬ変化や
あらゆる危機が連鎖的に起きてしまった。
この連鎖の起源はその “ ナニモノか” の行動に起因しているとワタシは考える。
だがこの視点は科学的見地が主体の現代で、
あらゆる事象を経験し、長い間それらと向き合い研究した先人達が導き出した『頂点捕食者』の概念があってこその視点でもある。
これらの視点を過去の時代で当事者として得るには、
外的弊害が無く種族を超越した共感力などを有しなければ中々たどり着くことができないのだろう。
ではこのワタシが記す
“ナニモノか” とは一体ナニモノなのだろうか。
おおよその解釈では
『人間』と考えるのも無理はないだろうが、
ワタシはそうとも思わない。
もし過去の時代で、
無意識的にその領域において “狼” と “人間” が互いに『頂点捕食者』という自覚が備わっていたとしたらどうだろう。
この場合『ナニモノか』という部分の本質は、
両者の縄張り意識や
個々の視点に依存した “内面的な部分” であり、
本能を制御できるかどうかの精神的で見えないモノを指すのではないか。
これは現代の人間視点では “対動物” と考えた場合、
とても無理難題な境地なのかもしれない。
そうして互いに争いを余儀なくされた可能性も十分にあるようにワタシは考えている。
- さいごに-
ここまで見てくださりありがとうございます。
今回の記事は、過去のワタシが裏方を専任している際に、
直感的に「ニホンオオカミ」が絶滅した起源を辿る機会があり、
その本質的な部分を考えた時に至った結論をまとめたものです。
現代社会では多くの団体や個人があらゆる声明を発表し、様々な意見や主張、意志が交差するなかで、
一定の領域や『限界』とされる地点に達すると
生存本能が暴走してしまう側面もはらんでいるようにワタシは考えています。
無論、そんなワタシも自らの意見や主張、意志を基に "SHAPES OF LIFE" の活動に至ったわけですが、
人として生きる上で、
多くの知能や視点、革新的な技術も現在ではより身近に満たされています。
過去には人間社会で多くの偏りを見せていたことは、
ワタシもあらゆる葛藤を抱えながら身を持って体感してきました。
ただ、
一つの個体の視点の生存本能を主軸にした生き方だけではあらゆるバランスに影響し、
予期せぬ事態を招くことも十分に起こり得ると考えます。
これは過去の先人達が身を持って体験し、
命を賭けて残した多くの叡智から紐解くことは可能かもしれません。
"本能だけ" では容易に辿りつくことが困難な
「生きるための視点」。
『その視点を持つための生き方』を、
本能だけでなく現代まで受け継がれた様々な叡智から各々の直感を活かし、
あらゆる種族や個体の生き方が "交差する点" を、
人間社会の価値観においてもワタシは追求しています。
木森 林林(RINRIN KOMORI)