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毒がない白蛇 by. 木森 林林

『解毒』

日々を生きる上で
有害な影響を受けるのは避けたいものだ

目にする情景や描写
口にする食物や言葉
耳にする情報や知識
鼻から入れる空気さえも

“清く美しいモノ” に越したことはないだろう

だが人は日々を生きる上で
有害無害に関わらず
周囲の影響を完全に避けることは困難だ

“醜い汚れたモノ”があり
“清く美しいモノ” に魅了される事も事実

ただ全てがその人の受け取り方や捉え方
望む方向次第で
自らが求めるカタチへと解釈し変化させることも可能だ

ワタシは周囲からの影響に対し
解毒や浄化の習慣を通して
自らの器を維持するコトに重きを置いている

photo : 時計草 (Rinrin Komori)


- 解毒の解釈 -


まず冒頭で記した
ワタシが日々行う『解毒や浄化の様な習慣』というのは
“除菌や消毒” といった類のものではない。

表面的な外側の面ではなく内側の点に対する視点。

結論にも通づるが、
日常で「蓄積された汚れ」が取れにくいように、
日々のあらゆる習慣次第で人の内側にある “器” を綺麗に保つことは可能だ。

綺麗な器でなければ
有害なモノかどうかの選別は難しく、

汚れた器ではさらに蓄積し
いずれ払拭できなくなる。

自宅を綺麗に保つ様な目に見えるモノと、
人の内側にある目に見えないカタチでも
どちらにも同じく必要な習慣なのではないか。

さらに有害無害に関わらず、実生活において
「周りの影響を完全に避けることは困難」という表現にもいくつかの理由がある。

そもそも常に “綺麗なまま” でいることは
ワタシ達が生きる自然の摂理ではあり得ない。

ここでいう「綺麗なまま」とは
外的影響を可能な限り受けない様子を指している。

『清く美しいモノ』という概念そのものも様々だが、
人が見て美しく感じるモノは、傷がなく痛みが無いモノかといえば一概にそういうわけではない。

“汚れ” と“傷や痛み” は全く異なるモノであり、
ワタシのいう “解毒” は前者の「汚れ・穢れを落とすこと」の 必要性について言及している。


- 器に付いた鯵? -


では “傷や痛み” の様に見えるモノは
時と場合により見る者次第で『アジ』と捉える場合もある。「器の中の鯵」ではなく “外から見えるアジ” だ 。

その外側にある “傷や痛み” はどの様にして残ったのか。

「外傷」として有害な損傷を経て残るモノもあれば
そのモノが生まれつき持った個性としての場合もある。

例えるならば、
「 生まれ持った“模様” 」として見れたならまた違った様相を見せるだろう。

前述から述べている『汚れ』も避けることが困難な場合、

それらを拭き取る行為を繰り返せばその部分は削れ
見る者次第では “傷” に見えるかもしれない。

ただ『清く美しいモノ』と触れ、
自らがそうした存在として臨むには、

内側の器の状態に目を配り、
自らが望むカタチを維持する意識を日々働かせねばならない。

その先にようやく "傷や痛み" が『アジ』として浄化され、
より美しく昇華するモノへと変容を遂げるのではないか。


- 毒がない白い蛇 -


日々行き交う事象がこうした解毒や浄化が為され、
『清く美しいモノ』を受け取り与えるサイクルが形成されればこの上なく居心地が良いのだろう。

「解毒」という表現は
巳年の蛇が毒蛇ではなく
"毒がない白い蛇" であることを願う表現だ。

毒を持つ動物は
身を守るために毒を有していると考えられやすいが、
一概にそういうわけではない。

その動物が生活する環境に属する草花や生物を食し、
その食物に含まれる成分が体内で毒素となり保有していることも多くある。

これは人間も同じく、

属する環境からナニを選択し
どのような形で取捨選択をするのかに寄って、
自分の身は勿論だが周りの環境にも様々な影響を及ぼす。

有害な外傷を負わず、
互いに有益な環境を望むには

そうした根本的な習慣や改善を行う
『日々の解毒と浄化』が一人一人の内面から必要な働きなのかもしれない。


- さいごに -


ここまで見てくださりありがとうございます。

前述でも記しましたが、
今回の記事は巳年の蛇に絡め『解毒』として
“毒蛇には成らず、内側の毒素を浄化するために”

という意図と視点で考えてみました。

有害か無害かという判断も、
目に見えるモノがどうかや、それらを見る視点、解釈により異なります。

ただ全ては各々が理想とする環境や状態を維持するためには
一体ナニが必要なのかと考えた時、

やはりそれらを判断する “ワタシの器の状態” に依存するのではないかと思います。

断捨離という習慣も、捨てることで
「空いたスペースに新たなモノを受け入れるために行う」という考え方がありますが、

内面に蓄積した “汚れや穢れ” というモノは実体がなく、
中々見えづらく気付きにくいモノです。

年末に外側の大掃除をするように、
年始に内側を整えることは有意義な考え方かもしれません。

photo : 大正時代 (Rinrin Komori)


木森 林林(RINRIN KOMORI)

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