鳴り止まない周波数 by. 木森 林林
『共振と共鳴』
共に振え共に鳴く
これはナニカの合図なのか
足並みを揃え歩むモノは
どこか同じ感覚を得る
正確にはそのモノ同士が出会う時
すでにナニカに呼ばれて導かれたような感覚だ
繋がりがないと思い込む目の前の世界で
実は繋がっている気がする
いつどこで結ばれたのかは分からないこの事象に
ナゼか未来の可能性を感じるのだ
- 一度経験した "今" -
ワタシは昔から日々を生活する中で
"一度見た記憶" という事象に頻繁に遭遇する。
それは景色だけでなく、
対象物が動く様子や言われる言葉など多岐に渡る。
そしてその経験が重なるにつれ、
出会う人すらも過去に一度会ったことがあるような感覚を得ることもある。
この瞬間は相手に直接言いたくなるほど込み上げるモノがあるのだが、
実際に伝えると過去に困惑された経験もあるため
何も言わずに「ナゼその感覚を得たのか」を俯瞰で観察するようにしている。
これは未だに何が理由でワタシの中の記憶がそうさせているのかは言語化が出来ないが、
目の前の事象全てに対して「一度経験したコト」の様な視点でワタシは解釈し、今に至る。
この感覚に共感、いや、
"共振と共鳴" して頂ける方がいれば、
是非一度話をしたいものだ。
偏ったスピリチュアルな話ではなく、
できるだけ多くの人にこの感覚を理解していただきたいが
幸い昨今の世の中の流れが
そうした 「共振」 や 「共鳴」 、『周波数』 と言った、
科学的な視点からも多くの議論がなされているようだ。
- 鳴り止まない周波数 -
音の業界にいたワタシは、
20代前半から周波数というモノに魅了され
音を作りながら
"ミキシングエンジニア" としても活動をしてきた。
ミキシングという作業は
音楽業界で決まった周波数の枠組みの中で、
いかにして聴き心地を探求し
各音色が本来持つ特性を活かしながら一つの作品として棲み分けができるか。という分野で、
主に一般的に流通している「音楽」は、
個人差やクオリティの差はあれど全てこの工程を踏まえて多くの人の耳に届いている。
そんなワタシは聴覚が人一倍敏感で、
職業病以前に大きな音や一定の周波数を聴き続ける事が難しく、ライブハウスなどでも専用のイヤーチップを装着している程だ。
だがワタシはそうした音楽的な周波数の
"さらに奥に鳴る音" に今は関心がある。
それは人やモノ、事象が発する周波数だ。
ドイツの物理学者マックス•プランクが
『この世の全ては振動でできている』と述べたように、
素粒子の世界では
常に全てのモノが振動でできているようだ。
この理論についてここで深くは掘り下げないが
この理論を端的に考えた場合、
目の前にある全てのモノや事象が振動により具現化していると考えた場合どうだろう。
周波数も音波であり波の形状をした振動に過ぎない。
つまり身の回りのモノや事象は、
それらの周波数が自らと共鳴しているから実態としてワタシ達の目の前に存在しているのだ。
もしこの理論を元に、
過去、現在、未来を考えるならば
前述で記した「一度経験したコト」という感覚も妙に辻褄が合う。
共振や共鳴をしているから目の前の出来事として存在し、
自らがその出会いや事情を現実に投影しているのであれば
これほどまでに "自然" なことはないだろう。
- さいごに -
ここまで見てくださりありがとうございます。
今回の記事は、
視点を少し細かくこれまでに記事に記してきたような “俯瞰” で視た時に 「感じるモノ」 を記事にしました。
昨今では表立って専門的に研究している方も多くいる分野ですので、そうした方々の見解を一人の当事者目線でワタシなりに解釈しています。
日常生活で起きる事象は、
時に不可解に感じるコトもあります。
日々遭遇する全てのモノが周波数でできているとしても、
そのような視点で生きることは中々容易なコトではありません。
過去に見た記憶が蘇ったかのような気付きや、
不思議な違和感も
全てがワタシ達にとって良い事象かといえばそうとは限りませんが、それらの事象一つ一つに意味があり、
過去から未来へと繋がっているナニカである。
と考えるコトで、
少し前向きに乗り越えられるコトもあります。
あまり考えすぎる事もよくありませんが、
こうした違和感や不思議な事象すらも “自然な流れ“ と捉え、
『ナゼこうしたモノゴトが目の前に現れたのか?』
と疑問を浮かべるコトで、
見えない周波数のような “感じるナニカ” と自ずと繋がっているのかもしれません。
木森 林林(RINRIN KOMORI)