2025年の兆し by. 木森 林林
『キザシ』
この言葉は二種類あり
“萌し” と “兆し”
違いは主に
「見える変化」と「見えない変化」が
何らかのカタチで感じ取れる様子で区分される
“見えない変化” とはナニカ
その感覚的なモノを伝えるために
キザシというコトバがあり
表現も存在するのだろう
どちらも変化の瞬間の前後を現し
貴重な事象がゆえにあらゆる可能性を秘めている
- キザシが秘める可能性 -
日常会話の中ではあまり使わないが、
詩や小説、記事などの文面では見かける
この『キザシ』という言葉。
なぜ普段あまり使われないのか。
『キザシ』を体感する瞬間は
ナニカを観察していたり集中していたりと、
「気配」に近い独特の場合が多いように思う。
"見える変化" としての『萌し』は、
現代では「萌える(もえる)」という表現で馴染みはあるが「キザシ」という表現で使われることは稀だ。
調べてみると字のごとく、
草木が芽吹く様子などに古くは使われていたようだ。
"見えない変化" としての『兆し』は、
現代では数字の “兆” という単位で使われており、
数字のケタ数としてもあまり日常で実感が沸かない様子は
どこか感覚的に "見えない部分" を物語っている。
ワタシはどちらも、
成長や前進する上での "前向きな可能性" を内包しているように解釈している。
そんな『キザシ』は2025年になった今、
どのような可能性を秘めているのか。
- 2025年の兆し -
昨年の元旦は能登半島地震があり、
当時、偶然にもワタシは石川県と密接な関係で
後に被災された方の話を耳にする事があった。
ワタシも過去に大規模な震災を幼少期ではあるが経験した身として、細やかながらエールを送らせて頂いた。
石川県では "萌し" という目に見えるカタチで
本来の日常にいち早く戻れるよう祈っている。
ワタシ達はコロナ禍で多くの人の生活の変化や日常の価値観が変わり、今年で五年が経った。
経済的にも物質的にも精神的にも、
あらゆる変化があり
一人の一人の価値観も原点回帰するように、
自然なカタチで各々が『本質的に望む方向』へ導かれているように感じている。
これもワタシが考える一つの『兆し』であり、
この現在の “社会的変容“ は
全体を見ると多くの人が揺れ動き、
入り乱れることは必然のようにも思う。
一部ではそこに混乱や混沌とした様子も見受けられるが、
一人一人の "今いる地点" と
"自らの本質的な地点" を見返す時期が
この数年だったようにワタシは見ている。
それはワタシ自身も生きる上で
多くの『兆し』とされる「気配」の様なモノを昔から感じとる特性を持っており、
偶然のようで必然と考えざるおえない事象がこれまでに数えきれないほど身の回りで起きている。
その一つとして、
前述に記したように能登半島地震が起きる前後にナゼかワタシがこれまでご縁は無かった "石川県" と密接な距離感にいた事だ。
このご縁もワタシの中ではナニカの意味や意図が働いていると解釈している。
今年は "見る視点" によっては、
前述で記した 「社会的変容」のより中心部に迫るような事象が多く起きることも考えられるが
それらも全て、各々の
"自らの本質的な地点"=本来の自分
と向き合う機会と考えれば、
失ったモノや別れた存在もまた
別のカタチで再会を果たすかもしれない。
その時に互いが “本来の自分” として出会うことができればこの上なく幸せなことだろう。
この記事をここまで見てくださった方は
既にナニカの『キザシ』を感じているかもしれません。
- さいごに -
改めて能登半島の状況は現在でも復興への目処が経っていない様子もあり、
被災地や被災された方々へは一日も早い復興をお祈り申し上げます。
ここまで見てくださりありがとうございます。
ワタシが "SHAPES OF LIFE" のコンセプトに
『直感』という言語化できないモノを掲げているのは、
今回の記事で記したような
『キザシ』と通づるモノがあります。
これまでの人生で多くの危機的状況は経験しつつも、
今思い返すとその状況から抜け出すための行動原理は
全てワタシ自身が感じ取る "直感と本能" がそうさせてきたように思います。
一例として
ワタシが20歳前後の頃、実家で一人寝ていた時に2階の部屋で火事が起こりました。
窓のシャッターを降ろしていたワタシは何も気づかず
夢の中で『コツ…コツコツ…』と音が聞こえ、
目が覚めると窓の外からシャッター越しにその音がとても大きく聞こえていました。
外に出てみると、
通りかかった見知らぬ人が少し離れた場所からシャッターが閉まった1階の窓に向けて多くの "石" を投げており、
その音でワタシは目を覚ます事ができたのだ。
もしそこで目覚めてなければ、
燃えていた場所がワタシの寝ていたベッドの真上で
危うく天井が抜け落ちていたところでした。
これは第三者が聞けば「良かったね」という話で終わるかもしれないが、当事者のワタシにとっては
偶然通りかかった人の懸命な判断はもちろん、
時間、天候、多くの条件が揃い
目覚める事ができたことに本当に感謝と共に言語化できない程の感覚を得ました。
その後ワタシは、
沖縄に拠点があった当時の先輩にこの話をした時、
「ワタシが生きている意味」や、
無意識にそうした異変を察知する能力や “感覚的なモノ” についてとても前向きに悟して頂いた。
その頃からワタシは少し自分を俯瞰で見る様になり、
ナニカの事象が起こる前後にワタシは何らかの情報を得ていることに気がつくようになりました。
これがワタシにとっての『キザシ』です。
特別ワタシが特殊な能力者だと言いたいわけもなく、
ワタシの視点ではこうした事象を過去の別の経験でも
実際にワタシと居合わせ同時に体現している人もいます。
これらの異変や変化を「感じとる事」は
特定の方法が無くとも同じ世界を生きている以上、
各々の視点や解釈次第で本来皆が備わっているようにも感じています。
ただ、身近な存在の命に対して向き合う機会や、
早くに自分自身の生命に関わる体験をした人は、
よりワタシと "似た感覚" を持ち合わせているかもしれません。
同じ様な経験をした方や、
これらのハナシに共感する方々は今各々が生きている理由は必ずあるとワタシは考えています。
その "理由" は日々移り変わる『キザシ』から直感や本能を頼りに辿れば自然とその答えに導かれます。
思想的なハナシになりましたが、
これらは実体験を通してワタシが考える生きる上での前向きな考え方に過ぎませんので、
ナニカの参考になれば幸いです。
木森 林林 (RINRIN KOMORI)