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欲という名の迷宮 by. 木森 林林
『独占欲』
“独占する” という行為は
あらゆるモノを見た結果行き着いた行動なのか
他のモノが視界にすら入っていないのか
それとも
“独占すべきナニカの理由” があるのか
物や人に関わらず
ときに空間さえも支配するその様相は
"欲" の中でも異質である
ナニが起源で
その先にナニを求めているのか
その支配的ともいえる行動が
どのようなカタチで有益に働くのか
その働きは興味深い事象である
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- 迷宮の入り口-
現代社会を生きる上で、
「自分の手中に納めたい」
という欲求は資本主義社会を生きる上で避けて通れないのかもしれない。
たとえ最低限の衣食住を補うためにも、
"欲" は必要となる。
だがそこに特別な執着や個人的な強い意思が宿ると、
『独占欲』という過剰な様相に変化する。
一定の枠内には収まらないその意識や行動は、
起源や起点となるモノが必ず存在するだろう。
ワタシの経験則に過ぎないが、
その大半が個人が先々のモノゴトを考え
「最善を尽くすべき行動」として現れる事象と考えている。
そもそも『独占欲』と感じる場合は当人ではなく、
第三者や観測者視点で見れるモノであり、
『独占欲』という「過剰な行動かもしれない」と当人や周りが判断し考える余力がある場合は
不快な視点での表現にならず “必要な欲” として供給され、
相互にバランスを考えた対策や解釈がなされるではないか。
では双方のバランスを考える上で、
「独占している」と第三者が思わないためにはナニが必要なのかという視点で考えてみよう。
ワタシの結論は、
その行動原理の根本的な目的や理由がナニカを明確に示す他にないのではないかと考える。
だがそこには現在の資本主義社会では「迷宮の入り口」とも思えるほどに、
限りなく本質と向き合う必要があるようにワタシは考える。
- その先に見えるモノ -
①ワタシが生きていくにはこの行動が必要
②ワタシ達が前進するにはこの場所が必要
上に二種類の主張がある。
どちらも抽象的な主張になるが、
これらに対して「ナゼ?」という疑問が前述で記した本質を問われる部分になる。
先にここでは “疑い” や “疑念” といった要素は排除したケースで記している。
①のように “生きるため” そして “行動” が目的であれば、
端的で明確な理由を元に行動すればよいだろう。
ただその行動をする上で、別のナニカが関わる以上はその対象に行動原理を明確に示す必要がある。
その行動が生きるためであり、
生きるために必要な行動と共感がされれば異論無く向かう方向へ前進し、必要で得られるモノが与えられる。
では②の場合はどうだろう。
①と②の差は、
①の行動を経て得るモノや対象物が現れた場合だ。
ここでは「場所」と定義したが、
前述の通りこのケースもその行動原理を明確に示す必要はあるだろう。
だがこの場合、“場所” が必要な理由を「前進するため」という直近の事象を元に示す場合がある。
そうなると「前進する理由はなぜなのか?」という本質的な部分を互いに目を向けることになり、
その根本が開示されずにその「場所」やモノを得た場合、
第三者や観測者は『独占しようとしている』と感じても無理はないのかもしれない。
これらは過去や現代でも多くの議論や争いが起き、
分断や崩壊の原因にもなってきた歴史がある。
おそらくそうした過去のケースを踏まえ、
議論をしたくないモノ
争う意志は無いモノ
分断を避けたいモノ
崩壊しないように考えるモノ
こうしたナニモノかの意志が内側で働き、
相互に擦り合わせ前進を余儀なくされるコトがワタシが考える「迷宮の入り口」であり、
『迷宮』そのものである。
なぜ『迷宮』という表現に至ったのかは、
本質的な行動原理の起源を辿れば皆が本来は “生きるための選択” であり、
その過程で起きる競争や自ら選ぶ行動に伴い
「必要なナニカ」は変化していく。
ここで各々に備わった “欲” のバランスが現代の資本主義社会の中で異なり、時に『独占欲』とされるモノも姿を現す。
ただ前進を始めた時点で既にあらゆるモノゴトの取捨選択を余儀なくされ、
その個人の生き方や状況次第では、
原点や起源にまで遡り立ち帰ることが容易にできない場合もあるのかもしれない。
紙に書いた迷路であれば容易に引き返すことができるかもしれないが、実際の今を生きている人生に置き換えればどうだろう。
帰り道が存在しない迷路を歩んでいるようにも見える。
しかし『迷宮』とは進み続けた先にまたスタート地点に戻るような仕組みもあるように、
壁や分岐に差し掛かった場合や、
もし窮地とされる状況に陥った場合には
既に「迷宮の入り口」≒「始まりの地点」に立っているのかもしれない。
- さいごに -
ここまで見てくださりありがとうございます。
今回は日常で感じるネガティブ感情の本質の一部に、
『独占』と感じる "偏り" があると考え、
ワタシの視点で記事にしました。
この "偏り" は個々の立場や観測地点により異なり、
ワタシ達一人一人が日常にどのような影響があるのかをまず考えるべきかもしれません。
そして自ら進む道の上で取捨選択を余儀なくされた場合、
常にその行動原理の原点を考え、
都度必要なモノを視野の届く範囲で選択することで
新たな可能性や道を自ら導き出すことができるかもしれません。
ワタシは今の視点やこの本質に行き着き、
過去の経験や人との繋がり、身の回りのモノゴトに対しても感謝できるようになりました。
この経験や視点を得て今感じることは、
早い・遅い・大小関係なく
生きる上でいつか皆が各々の環境や状況の中で近い感覚を得るようにも感じています。
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木森 林林(RINRIN KOMORI)