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“時と間” のアイダを生きる by. 木森 林林
『時代』
時の流れとは
あらゆるカタチで表現され
感じ取ることができる
暦や時計のような永遠と刻まれるモノ
書籍や写真のように残されるモノ
年齢や流行のように体感するモノ
実生活において
日常で触れるその多くが “時代を感じるモノ” である
“時を制する者” という表現があるが
実際に制するコトは可能なのか
『時の概念』を超越したその先には
一体ナニがあるのか
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- 時を制する必要性 -
『時 -トキ-』とはナニカ
学名では「Nipponia nippon」とされ、
羽ばたく姿が赤と白のグラデーションで美しく
日本では古くからゆかりのある希少な鳥とも連想できるが、
今回は 「時代が刻むトキの変化」 についてだ。
現在ワタシ達は『令和』とする2025年を生きており、
これまで年号として多くの時代を生きて今に至る。
それは先祖代々あらゆる苦難や困難な時代があったとされ、
多くの文献や歴史から学ぶことができる。
古くは様々な逸話がある中でも、
“時の権力者” とされる者が統治を目的に限られた人間しか知り得ない手段で先導し、
暦を含む周期や法則、
群衆心理なども屈指しながら窮地を乗り越え
先人達は長い時代を築き上げてきたわけだ。
そのバトンは
“今この瞬間” に生まれた存在もまた
時が経ちこれまでの歴史を継承する存在になると考える。
ワタシの考えや視点は過去記事でも少し触れてきたが、
過去の先人が残した概念として
“時を制する者” と言う解釈も存在する。
この主な考え方や軸となる部分は『時間』だ。
日常生活や仕事をする上でも、
あらゆる制限や期限として活用されているこの "時間" を
どのような視点や解釈で
「自ら操り活用できるか」と言う視点がこの概念の主軸であるとワタシは考えている。
これは過去にワタシが提唱してきた “俯瞰で見る視点” を体得すれば視えてくるモノではあるが、
結論ワタシは「時を制するコト」は推奨しない。
正確には “制する必要まではない” ということだ。
それは同時に時を共有し存在しているモノにも
あらゆるカタチで多く影響を与え、
一方が「制する」概念の時間軸でいる場合に
片方にどういう影響を与えるのかを視れているかが根本的に重要であり、
そこには相応の達観した能力も必要だとワタシは考える。
- “時間” と “時代” という名の固形物-
ではこの「制する」という概念や考え方がナゼ生まれ、
現代にまで語り継がれ一部では必要とされているのか。
それは個々の承認欲求や支配欲などの
生まれ持った環境や価値観からくるモノもあるとは思うが、
そもそもあらゆるモノを共存して生きる必要がある人間は、
生きて死ぬまでの間に多くの "時間" も共有している。
その時間をどう捉え、何に活かす必要があるのか
というコトに真剣に向き合えば
一つの表現としてこの概念や価値観が提唱されるコトも無理はない。
ただそれは前述でも記したように、
"達観した能力"=その価値観に対して共存するモノが一方向に足並みを揃えるための過程も必要であり、
そこが抜け落ちると傲慢な生き方や
本来の共存や共生という視点から逸脱してしまう。
この過程を踏むにもまた多くの時間が必要になり、
もしその過程の時間が重要であれば
この概念でいう『時間を制する』という概念も矛盾しかねないというわけだ。
すなわち時間というモノは
人が本来必要な「衣・食・住」のように、
“物のような価値” を有しているとも考えられる。
さらに時代という大きな枠組みで見たとしても、
その循環にある節目を「年号」として記しているならば
時代は繰り返す事も自然な流れであり、
過去の偉人や歴史が物語るようになんらかの法則性があるのも自然の摂理なのかもしれない。
- “時と間” のアイダを生きる -
これはワタシの視点で見解に過ぎないが、
『時代』と表される大きな枠組みがある理由は、
その転換期に過去と未来を考えるための節目であり
日々の「時間」というサイクルで生きる人間が盲目的になってしまう、時の間(アイダ)を読み解くためにあるようにもワタシは考えている。
これは抽象的な表現でしか現状では難しいが、
『時を制する』という概念を過去の偉人が提唱したからこそ向き合うことができた視点であり
こうした継承される瞬間やカタチこそが、
『時代を生きている』と実感できる瞬間なのかもしれない。
今後多くの世界で、
さらに新たな価値観や視点が創造されていく中で
もし今回の記事を機会に
読者が得た視点が伝番し、またどこかの世界で拡がりを見せることがあれば、
その時さらなる共感を産むこともあれば
懐疑的な意見を述べる者も存在するだろう。
ナニカを得てナニカを与え、
そこで少しでも新たに「考える時間」があるとすれば、
その空間にはとても有意義なモノがあるのかもしれない。
- さいごに -
ここまで見てくださりありがとうございます。
タイトルの「トキ」は、
『トキが風に乗り飛ぶ姿』という表現がワタシにとって2025年の理想形と考え名付けました。
年号を一つの区切りとするならば、
現在の令和は2025年で七年目を迎えます。
“時代“ に焦点を当てると多くの事象が存在し、
「瞬間の一時」に比べると大きいスケールですが、
日々の時間の積み重ねであるコトに変わりありません。
今回記事にした時代を紐解く『時間』と言うモノは、
現代では科学的な視点でも多くの発見や見解が日々交わされています。
そこに意義を申すことや、
切り込んでいくほどの視点ではありませんが
同じ『時間』というモノに身を任せている存在として、
一つの視点や新たな価値観として活かすことができればと思い今回は記事にしました。
冒頭に触れましたが、ワタシは野生のトキを実物で拝むことはまだできていません。
今年は野生のトキの生息地へ足を運び、
実物を拝むことを目標にしたいです。
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木森 林林(RINRIN KOMORI)