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「美しさ」のヴェールに隠された「野蛮さ」【奴隷制プランテーションから考える】

アンジェラ・デイヴィスの『監獄ビジネスーグローバリズムと産獄複合体』(2008, 岩波書店)を読んでいて、ふとある言葉に引っかかった。

奴隷制プランテーションの中に建てられた今も残っている19世紀の大邸宅がどんなに美しくとも、われわれがその芸術的賞賛で満足してしまうことはほとんどない。黒人奴隷の苦役についての充分に視覚的なイメージがわれわれの周りには広く行き渡っており、すばらしい大邸宅の表面のすぐ内側に隠された野蛮さを思い浮かべることは容易だからである。(『監獄ビジネスーグローバリズムと産獄複合体』アンジェラ・デイヴィス著, 上杉忍訳, P.32)

本当にそうか?と思ったのだ。

奴隷制プランテーションが誇示する「美しさ」


現在、アメリカに奴隷制時代のプランテーション跡地として歴史的に残されているものは、アメリカ合衆国国家歴史登録財(National Register of Historical Places)に指定されているだけのものでも130近くある。しかし、そのほとんどは白人奴隷主の貴族的な暮らしや、プランテーションの景観の「美しさ」に焦点を当てたものが多い。その「美しさ」は奴隷制という「野蛮さ」なしには語れないはずだ。

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写真: Oak Valley Plantation

もちろん奴隷小屋生活を展示するコーナーが設けられている箇所も多少なりともあるが「奴隷たちは幸せで優しい奴隷主のもとで労働していた」と奴隷制を正当化するような展示のされ方がなされることも少なくない。(奴隷制の残虐さから目を背けるこのような言説は "Happy Slaves Myth"と称される。)

さらには「プランテーションの生活を来客者に体験してもらうこと」を目的に、プランテーション跡地を宿泊施設や、レストラン、また結婚式場にすることも全然珍しくない。南部諸州は特に南北戦争前の南部の繁栄を誇示するため、豊かさや「美しさ」の象徴としてプランテーションを残し、歴史的跡地としているのだろう。「奴隷制度を風化させない」という目的ではないことは、いとも簡単に推測できる。

顕著な例はルイジアナ州にあるHoumas Houseだ。1800年代に繁栄した奴隷制プランテーションであるが、公式サイトの歴史背景の解説には「奴隷 Slave」の言葉がなにひとつ明記されていないことに驚く。別記事によると、南北戦争以前、このプランテーション経営者は通算500〜700人もの奴隷を所有していたにも関わらず、10人にも満たないであろう白人側の語りを中心に語られるプランテーションの歴史は、その繁栄や「美しさ」の裏にある「野蛮さ」という本当の姿を見せまいと懸命になっている証だともいえるのだろうか。

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写真:Houmas House

下記のHoumas Houseの紹介動画は「豪華なプランテーション生活をどうぞご体験ください」と繰り返し訴え、その「美しさ」を求める来客者を想定して作られている。

かつて奴隷とされた人々の子孫は、この「美しさ」の裏にある「野蛮さ」にすぐに気づくかもしれない。しかし、その「野蛮さ」を隠し、「美しさ」を芸術的賞賛と捉えられるようプロモーションを施しているところに、なんとも言えない違和感そしてむず痒さを覚える。

そんなこというけど、奴隷制度や奴隷とされた人々の生活に焦点を当てたプランテーションなんか当たり前にあるんじゃない?

いや、実は驚くことに「奴隷とされた人々」に焦点を当てたプランテーション跡地は、全米でたった1つしかない。筆者も訪れたことのあるルイジアナ州 New Orleansに位置する、ホイットニー・プランテーション(Whitney Plantationだけだ。

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写真:Whitney Plantation(上: 筆者撮影 / 下: 出典

しかも驚くことに、ワシントンポストの記事によれば、米国内に35,000ある博物館の中で奴隷制だけに焦点を当てたものはたった1つ。このWhitney Plantationだけなのだ。(のちにAtlanticが他にも2〜3つある旨を明記しているが、プランテーション跡地で奴隷とされた人々に焦点を当てたものがここだけであることは間違いない。そして残念ながら他の博物館はWhitney Plantationほど大規模なものではない。)

Whitney Plantationは2015年、米白人男性John Commingさん、そしてセネガル出身の歴史学者 Ibrahima Seckさんが共同で設立したものだ。Commingさんは、

「自分は奴隷制の実態についてきちんと教育を受けておらず、無知を貫いてきた。しかし、奴隷制の歴史はBlack Historyではない。アメリカの歴史である。あなた、そして私の歴史である。各州に残存するプランテーション跡地は白人奴隷主の豊かな生活や美しい景観を誇示するだけで、誰によってそれが成り立っていたのかを教えようとしない。」(下記インタビュー動画より筆者要約・和訳)

と、当館の設立に踏み切った。

また、セネガル出身の歴史学者Seckさんは、人々が奴隷として供給された西アフリカ出身者として、奴隷とされた人々の経験に焦点を当てた展示にこだわったと話す。

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写真:Whitney Plantation内の展示(上: 出典, 下: 出典

ここで、冒頭で引用したアンジェラ・デイヴィスの言葉をもう一度読もう。

「奴隷制プランテーションの中に建てられた今も残っている19世紀の大邸宅がどんなに美しくとも、われわれがその芸術的賞賛で満足してしまうことはほとんどない。黒人奴隷の苦役についての充分に視覚的なイメージがわれわれの周りには広く行き渡っており、すばらしい大邸宅の表面のすぐ内側に隠された野蛮さを思い浮かべることは容易だからである。」(『監獄ビジネスーグローバリズムと産獄複合体』アンジェラ・デイヴィス著, 上杉忍訳, P.32)

きっと彼女の指す「われわれ」は奴隷とされた人々、またその子孫のことであろう。それ以外の人々は、プランテーション跡地が誇示する「美しさ」を芸術的に賞賛し、その裏に潜む「野蛮さ」に気づくことは容易にはできないのではないだろうか。

私は奴隷制度をはじめ、奴隷とされた人々やその子孫の歴史について、ジョージア州に9ヶ月留学をして学んできたからこそ「美しさ」のヴェールに隠された「野蛮さ」に気づくことができた。しかし、留学前の無知な自分にそれができたかと言われれば、答えはNoになる。

不思議なことに、プランテーションの繁栄は誰の犠牲下で可能となったのかという「野蛮さ」を考えることは、その「美しさ」を前にすると途端に忘却されてしまうように思える。そうでなければ、そもそもWhitney Plantationがあえてプランテーションの「野蛮さ」に焦点を当てた展示をしないであろう。世界史の授業で多くの人々は、もちろん奴隷制度について学ぶし「黒人奴隷の苦役についての充分に視覚的なイメージがわれわれの周りには広く行き渡っている」かもしれない。だけれども、なぜか多くの人は「美しさ」を前にすると、途端にその美しさを作り出す「野蛮さ」に無自覚になってしまう。

「美しさ」を前に忘却される「野蛮さ」


アメリカの黒人作家として初のノーベル文学賞を受賞したかの有名なトニ・モリスン(Toni Morrison)は、1989年のTime誌のインタビューにおいて、代表作 Beloved (1987)を描いた背景を以下のように語っていた。

「奴隷制とはBelovedの登場人物が思い出したくないこと。私も、黒人も、そして白人も思い出したくないこと。つまりそれは、国民的記憶喪失 (National Amnesia) の状態に陥っていることを意味する。」(Time記事より筆者和訳)

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写真:トニ・モリスン(Toni Morrison

彼女は本作で奴隷制を制度として描かず、名もなき奴隷とされた人々の「個人的体験」の記憶を通じて、現代のわれわれとそれを再び立ち会わせるために描いたのだという。そして「国民的記憶喪失」に陥る、アメリカの「文化的記憶 (Cultural Memory)」における奴隷制の位置づけを提起したのだ。

奴隷制プランテーションの「美しさ」を前にすると、人々はその美しさとは二律背反な奴隷制下の暴力、そして「野蛮さ」を思い出したくない記憶喪失に陥る。そしてそれは決してアメリカだけの話ではない。

マーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ (Gone with the Wind)』。南北戦争前後の南部ジョージア州の大農園に生まれ育ったスカーレットの人間像、それを取り巻く変動激しい時代背景を描いた空前の大ヒット作だ。日本での公開は1952年。原作とともに日本でも広く愛される作品となった。

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有名な話だが、本作では南北戦争前の南部白人の豊かな生活をロマンティック化し、その時代を古き良き時代としてノスタルジックに描かれている。

2020年のBlack Lives Matter運動の最中、本作が南北戦争以前の南部白人の豪奢な暮らしを可能にさせた奴隷の残虐さや経済構造に触れず、奴隷とされた黒人を偏見じみた描写をしていることで問題視され、配信中止が求められた。

しかし、日本でも広く愛されただけに「現在の尺度で古典的名作を判断するな」と批判の声も多く見られた。それは、本作が描いた奴隷制時代の南部白人によるプランテーション生活の「美しさ」に魅了された人々がいた証であるだといえるだろう。奴隷制について知識として知ってはいても、作品が描く「美しさ」を前にすると、どうしてもそれを成り立たせた「野蛮さ」を忘却するという「記憶喪失」に陥ってしまう。それは決してアメリカの人々だけの話に限らない。

美しさの「ヴェール」が不可視化させるもの


黒人知識人・W.E.B.デュボイスは、代表作『黒人のたましい (The Souls of Black Folks)』(1903) で20世紀アメリカの「帝国」をつくりあげる不可視化された障壁を「ヴェール」と称した。

「黒人は、このアメリカの世界に、ヴェールを背負い、未来を見とおす目をもって生まれでた、いわば第七の息子であった。アメリカの世界ーーそれは、黒人に真の自我意識をすこしも与えてはくれず、自己をもう一つの世界(白人世界)の啓示を通してのみ見ることを許してくれる世界である。この二重意識、このたえず自己を他者の目によってみるという感覚、軽蔑と憐びんをたのしみながら傍観者として眺めているもう一つの世界の巻尺で自己の魂をはかっている感覚、このような感覚は、一種独特なものである。」(『黒人のたましい』W.E.B.デュボイス著, 木島・鮫島・黄訳, P.15-16)

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写真:W.E.B. デュボイス

彼によれば、白人世界によって構築された「ヴェール」によって、黒人世界は断絶され、そのヴェールによって白人世界から黒人世界は不可視化されている。そして黒人は、白人世界の「ヴェール」を通してのみしか、自己を見ることができない二重意識 (Double Conscious)を持っているとした。

奴隷制プランテーションが誇示する白人世界がつくった「美しさ」という「ヴェール」は、奴隷とされた人々の経験、奴隷制度という「野蛮さ」を不可視化させた。そしてその「ヴェール」を通してしか、奴隷制とされた人々(黒人)は自己の経験を知ることができない状況にいる。デュボイスが語った「ヴェール」の存在は、決して20世紀アメリカの帝国だけを意味するものではないだろう。

「美しさ」のヴェールに隠された「野蛮さ」は奴隷制度だけに留まらない。植民地主義、帝国主義、そして私たちの住む国家にも存在する。クィア研究者 Nishant Shahaniの言葉を借りれば「権力、ヘゲモニーは覆い隠され、潜伏して」おり、人々は帝国の「ヴェール」に無意識に、そして自発的に翻弄されてしまう引用元)。

刊行されたばかりの『帝国のヴェールーー人種・ジェンダー・ポストコロニアリズムから解く世界』(2021, 明石書店)は、人間を抑圧しつつそれを隠蔽する「ヴェール」を人種、ジェンダー、そして日本を含む現代社会の視点から解明した著書だ。

ちなみ本書のカバー写真には、アメリカの西漸運動を正当化した「マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)」を描いた、ジョン・ガストの『アメリカの進歩』(1872) という作品が使われている。

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アメリカを擬人化した純白のヴェールに身を包んだ女性・コロンビア、そして入植者や開拓農民、また先住民が小さく描かれている。この純白で「美しき」ヴェールには、先住民の強制移住政策、そして同時期に急拡大した綿花プランテーションで奴隷とされた黒人、その他にも多くの「野蛮さ」が覆い隠されている。

私たちはこのような「文明」がつくりだすヴェールが覆い隠す正体が何かを考えることも、そもそも批判的思考をすることも、その「美しさ」のヴェールを前にすると放棄してしまう。政治家・Eric Williamsは、自著『資本主義と奴隷制 (Slavery and Capitalism)』(1944) の中で「イギリスの産業革命はアフリカ人奴隷の汗と血の結晶」であると述べた。イギリス北部のリヴァプールは、奴隷貿易により繁栄した湾口都市である。しかし、私たちはイギリスの「美しい」街並みを前にすると、途端にそのヴェールが覆い隠す「野蛮さ」に目を向けることができなくなり、「記憶喪失」に陥る。

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写真:Liverpool, UK

イギリス人画家・William Blakeは「アフリカとアメリカに支えられるヨーロッパ (Europe Supported by Africa and America)」(1796) を描いている。

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今のヨーロッパの「美しさ」は、アフリカとアメリカを中心に人々が引き起こしてきた「野蛮さ」なしには語り得ないものだ。しかし、我々がヨーロッパのイメージを想起するとき、「文明国」のヴェールに無意識に、そして自発的に翻弄されてしまい、その「野蛮さ」を思い浮かべることはほとんどないだろう。むしろ西洋世界の「美しさ」に憧れ、代わりにアフリカには「野蛮さ」のイメージが植え付けられている。ヨーロッパを「文明国」として慕い、白人種を美しさの象徴ともしてきた日本もその「美しさ」のヴェールが覆い隠すものはなんなのか気づけていないのではないだろうか。

奴隷制プランテーションの「美しさ」というヴェールと同じく、西洋世界が作った「美しさ」というヴェールによって、植民地主義をはじめとする、ヴェールの内側にある「野蛮さ」を不可視化させた。そして、そのヴェールを通してしか、被支配者側は自己の経験を知ることも、語ることもできないでいる。2020年のBLM運動を通じて一層加速化する、像の倒壊をはじめとする負の歴史の清算は、まさに「美しさ」というヴェールを剥がし、覆い隠された「野蛮さ」を解明する作業に他ならない。「美しさ」というヴェールを剥がし、その内側に覆い隠されていた「野蛮さ」を明らかにすることがポストコロニアリズム(ネオコロニアリズム)世界の喫緊の課題であるように思う。

奴隷制プランテーションが誇示する「美しさ」というヴェール、ヨーロッパをはじめ欧米世界が表象してきたヴェール、そして日本を含む現代社会にも張り巡らされるヴェールが覆い隠すものの正体は、不可視化されたものは、一体何なのだろうか。

冒頭に引用したアンジェラ・デイヴィスは「奴隷制プランテーションの中に建てられた大邸宅がどんなに美しくとも、われわれにはそのすぐ内側に隠された野蛮さを思い浮かべることは容易である」と述べた。
私たちはいつになれば、そしてどうすれば、「美しさ」のヴェールに隠された「野蛮さ」に気づくことができるのだろうか?


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