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Flowしていく人生と、音楽と。

彼女の中に、flowしているもの。

環境や私以外の人に触れて
少しずつ膨らみ始めているもの、
彼女の中の音楽。

純粋で無垢で
何も縛られるものがない、彼女だけが感じている世界。
それに触れさせてもらった時間。

昨日娘がマイクを握りしめ、覚えた歌を2曲ほど披露してくれた。
その姿を目の前にしながら、そんなことを感じ取っていた。

まるで自分が小さかった頃みたいだった。
娘と同じ歳頃の私。
ソファを舞台にしてマイクを握りしめて歌っていた写真があって
その記憶の中の自分と娘が重なり合う。
何だか泣けてきた瞬間だった。

私にとっての
音楽。歌。

娘と同じ歳の時には、”歌手になりたい”
そう思っていた。
その思いが強くなり始めたのは思春期の頃。

高校で音楽科に進みたいと申し出た私を
両親は反対した。

割と正道を行かせようとする両親を裏切ることはできなかった、
まだ15歳の頃の自分。
長女としての立ち回りを感じ取って、押しきれなかったのかもしれない。
(妹が2人いるので)
それでも絶対に曲げない!と進んでいたら、今頃何か違っていたかな。


時が経ち、やっぱり音楽の道に進みたかった
今度ばかりは強い決意だった私を、
精神的にも経済的にも後押ししてくれた両親。
高校卒業後は、念願の音楽大学に進んだ。

大学卒業後は、何とか道を見出そうと相当もがいていた。
ここからが本番だった。

後悔はなんぼでもできる。
「もっと
足掻けば良かった!」と今となっては思う。

それでも私を突き動かしていた音楽に対する想いは
26歳の時、単身アメリカに渡る決意に通じていった。

若かりし頃の私


アメリカに単身渡る夢を叶え、
日本に帰国してから、
人生の土台をつくってくれるような音楽活動を始めた。

当時はまだ若いし、生意気だったし
苦い悔しい経験もいっぱいした。
そんな自分がいろんなステージで歌わせていただく中で
いろんな人達に出会った。
それぞれが、それぞれの人生の舞台を生きている途中で
音楽を通して出会えることは、この上ない宝だった。
それを音楽に乗せて、
消化しきれないことも苦いことなんかも全部ひっくるめて
いつも真摯に音楽に向かい合っていた気持ちは、本当だった。

ただ歌うことで満たされたいと思っていた。

当時は、
というか娘を妊娠する5年前くらいまでは、
”音楽で人に喜んでもらいたい、ちょっとでも何かが救われるような歌が歌いたい”
そういった想いがいつも根底に流れていた。

それで確かに、聴いてくださっている方々と
エネルギーのギヴ&キャッチで
「あ。伝わってる、流れてる」と
その瞬間のためだけに音楽やっているような日々で。

でも、今現在は
それがなんだかエゴのように思う。

音楽に心動かされ、喜ばされ、救われて、
生かされているのはいつもいつも自分の方だった。
”歌う”ことは、
子供の頃から自然に始めたことではあったけれど
それを還元して、誰かの人生のためにと思うはずが
自分の人生が生かされてる。
そうだった、いつもそうだったんだと解る。

時を経て、
自分の人生に子どもがいることは人生を変えた。
そしてそのことが
音楽家である前に
人間であることの意味がすごく解るようになった。



5年前から、ステージで歌うことは止めたままでいる。
この5年間は、
自分の人生が怒涛すぎて
そんな隙間さえ与えてくれない日々だった。

娘が誕生して、日本国内とアメリカと
バタバタ引っ越しして、
育児とパンデミックと異国に住む大変さに加え
メンタルの病気もあって
生きることが精一杯でそれどころで無かった。


子育てと病気の話までになったが、
結構壮絶なフレーズだったので
現在ヴォイストレーニングのお仕事を再開するなんて
5年前の自分では、想像できなかった。

もう歌わなくても
もう音楽しなくても
生きていくのかもしれない、と
悲しいような寂しいような
それでいてそれもまた一つの選択のような
そんな気がしていたけど。

新たなチャプターを迎えて
自分の身体の中に、音楽がflowしている。
血のように、呼吸のように
さらさらと、時に温かく巡っていくように。


終電は消えて途切れそうな
朧げ月の上に流れ込むため息
明日のこと思ってそれぞれ抱えて たわわに枝垂れる桜木の様
音楽なんかなくて生きていけるのに
どうして僕らはまた求めるんだろう
そんなくだらんこと出会えて本当によかった


アメリカに来て、日本語の”美しさ” "響き" が恋しくて再確認するかのように
日本の今どきJ-POPを
たまに聴いている。

娘の人生。私の人生。
私たちそれぞれの中にflowしている音楽は、
これからどのように展開されていくんだろう。

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