誕生日と、命日。
1月7日。この日は亡くなった母の誕生日だったので、仕事が終わったらかわいいお花でも買って帰ろう〜、と家を出た。
もうすぐ両親の10回目の命日がくることにも気づき、この日はずっと「誕生日」と「命日」について考えていた気がする。
ところでわたしたちは生まれた日のことを「誕生日」というけれど、ん?誕?誕って何なの〜と、気になった。
もちろん生まれた日、という意味はわかるけれど、「誕」という文字の意味については考えたこともなかった。
さっそく検索して調べてみると、うむ・生まれる、という意味の他に、いつわり・嘘・でたらめという意味を持っていることを知る。
たしかに「いつわり」と入力すると、「誕り」と変換される。
へぇ〜しらなかった〜〜、と思わず声が出る。
そして「誕」という文字は苦しみや悲しみを意味していると知り、さらに驚く。
でもどうしてこんなにもめでたくhappyな記念日である「生まれた日」の前にわざわざ「誕(いつわり)」の文字を置いたのだろう。
わたしは身近な人々をお空に送ってからは、生きること=死にゆくこと、とつよく感じるようになった。
それまでは死=恐怖、悲しみ、苦しみ、などネガティブなイメージしかなかったけれど、愛するひとが命をまっとうし、お空に帰る瞬間、自分の口から出てきた「よく頑張ったね、ご苦労様。」という言葉に、ああわたしはこの人たちにはもう退屈なほどに楽な世界でずっと笑っていてほしいんだな〜と気づいたのと同時に、帰る先がどうか穏やかな場所であるように願っていることに気づいた。
誕、という文字がどういう意味で添えられたかはわからないけれど、この世に生を受ける、ということ自体が誕(いつわり)であり、この物質世界で生きていくことが苦しいものでもある、という意味なのであれば、個人的には「誕生日」という言葉はすごく腑に落ちる部分がある。
そして、わたしたちは亡くなった日の事を「命日」という。
たとえばこれが肉体の寿命を迎え、亡くなった日のことを本来の自分が生まれた日、ということを意味しているとすれば、わたしたちが今、肉体に魂=意識を宿し生きているのは誕(いつわり)の世界であり、だからこの物質世界で苦しむことは当然なのかも、と。
そして本来いた場所へ帰る日のことを「命日」と呼び、その日こそが命を授かる日という意味なのかな〜、などと考えたりしている。
わたしは今日も生きつつあると同時に、死につつもある。
ネガティブな意味ではなく、誰もがいつか迎える死に向かって生きている。
今日も亡くなった人の音楽を聴き、亡くなった人の本を読み、亡くなった人の言葉に励まされながら、生きている。
誕生から、誕生(命日)に向かって生きている。
今日も、わたしは、生死は一体なのだなあ〜と感じている。