Siは本当に『常識的』?

最近抱き始めた疑問の一つ。

Siはよく「常識的」だと説明されるけど、本当にそうなんだろうか?

確かに、Siが強い人達は規則正しく、脇道を逸れないように“見える”。あくまでも第三者視点から見れば。

でも実際はどうなんだろう?
Siが内向される機能である以上、外からは見えない部分があると思う。ただの「規則的」という言葉だけでは語れ切れない部分が。



Si≠計画

まず第一に、Siは物事を地道に行うための詳細な計画を立てる機能ではない。(計画を立てる機能はTe)
Siは体内で起きていることを認識する。体温やその他の体の状態や心理状態までもを認識する。(『Emotion』という意味での『感情』を認識するのはSiであってFiではない。Siはそれを体内での変化として認識する。)
そして認識した体内の感覚を一定に保つために、リスクを避け行動に安定性を求める。この行動が第三者からは「規則的」だと見なされる。Siユーザーからしてみれば、全ては不確実性への不安と変化への驚きと新たに何かを考える事で生まれる葛藤を避けるためのものであるのにも関わらず、なぜか「規則を厳守するという信念を持つ人」としてステレオタイプ化される。本来、何を信じるかどうかを決めるのは判断機能の役割であるのにも関わらず、なぜかそのように誤解されている。



「Siは伝統を大切にする」 ── 違う。

なぜ、こんなにもSiが「伝統的」だと言われているのか。Siに関しての「伝統」は文化的なものではなく、個人的な習慣にすぎない。それなのにも関わらず「古くからある伝統的な文化を大切にし、次の世代へと引き継ぐ」のような説明がチラホラされている。

Siは間違いなく過去の経験を頼りにし恒常性を保つ機能であるが、それイコール「自分の土地の文化に執着を持つ」とはならない。それに関してどう感じるかは各々の判断機能が決めることであり、同じ事を経験しても良く捉える人も悪く捉える人もいる。そしてそれに関して悪い思い出を持っているのなら当然それを大切だとは思っていない。すなわち、「幼少期にこんな環境で生まれ育ったから」という根拠までがSiであり、「その伝統を維持すべき」という結論はSiではなく判断機能がもたらすものだ。そしてその答えは肯定的なものだけに限られない。



『記憶=内的現実』は果たして『現実的』か

記憶が現実的だと言えるかどうか。それは間違いなく現実に基づいているが、脳内に記憶された時点で現実でなくなる。あくまでも『主観』にすぎなくなる。

Siユーザーは自分達にとって意味のある経験を何度も繰り返すことを好む。何度も繰り返すとどうなるか?当然、歪む。
現実は変化し続ける。そしてSiユーザーの記憶の中で“それ”は『一定』であり続ける。現実の物は時が経つにつれ劣化していく。しかしSiユーザーの心の中ではいつまでも『新しい』ままである。Siユーザーがお気に入りの何かを経験する時はいつでも“初めて”の時の記憶が蘇り、あたかもその時に戻ったかのように感じられる。周りからしてみればそれは客観的に古く感じられようが、Siユーザーにとってはいつまでも新しく、その感覚のズレが「Siユーザーはいつまでも古い物に執着している」という偏見を生み出す。

同じことを長く繰り返せば繰り返すほどSiユーザーと他人との間のズレは大きくなり、最終的には「変わった人」だと見なされる。これはかなりSiが強い人の例かもしれないが、こう言える以上「Siユーザー=常識的」だとはとても言い切れない。



『馴染み』の感覚

Siとは何かと言えば、それは「馴染みの感覚を大切にする機能」だと言える。『お馴染み』という言葉があるように、Siユーザーは自分にとって馴染みあるものを愛する。

対照的に、新しいものは『刺激的』として表現される。
この『馴染み』と『刺激』という相反する概念はSiユーザーによって作られたのかもしれない。

Siユーザーにとって『馴染み』と『刺激』はどちらも体内感覚として感じられるものである。
繰り返し体験するものは次第に弱く感じられる。これを『慣れ』とも言う。同じものであっても見慣れたものからは何の驚きも生まれない。この安定性がSiの体内感覚の安定性と関連付けられる。
眩しさは脳を刺激し、落ち着きのある色は心を安定させる。この情報はSiユーザーの中で「落ち着く心理状態」と「落ち着かない心理状態」として分類されていて、“馴染み”を経験した時にはSiユーザーの中で今まで「落ち着く状態」をもたらしたものが無意識のうちに想起される。これが見慣れたものが文字通り“馴染んで”見えるという主観をもたらす。
対照的に新しい経験は驚きと不安定性に関する情報と関連付けられ、すべての刺激が増大される。明るい色は明るく、暗い色は暗く、それらが互いにハレーションを引き起こし、Siユーザーは新たな刺激に圧倒される。更にこのドキドキした心理状態は大きな音に驚いた記憶を呼び起こし、周りの音がますます大きく聞こえ、騒がしく不快になる。
これがSiユーザーが新たな経験を不快に感じる大きな要因だろう。

もはや、色彩心理でさえSiの領域だ。鮮やかで多彩な色は人を興奮させ、くすんでまとまった色は人を落ち着かせる。Siユーザーはこれを理論的に覚える事なく自分の感覚を通して理解する。Siユーザーが派手な格好を好まない理由も、この心理的安定性を守ることに由来する。



Siと『感性』

『感性』という言葉はSiを表していると考えて良い。

Siユーザーは一人一人違う経験によって作られた自分自身の感覚の中に生きる。Siによって作られる記憶は一人一人の大切なものを表し、各個人の中に『自分だけの伝統』を作り出す。それは今までの経験の中で築き上げられてきた壮大な本(書庫や倉庫や引き出しと言った方が近いかもしれない)のようなものであり、重要なものは全てそこに収納されている。

それは同時に「何が自分を満足させるか」の集合体でもある。(Fiと間違えやすいが、Fiは倫理的な基準であり、Siは感覚的な好みである。)
次々と変わる流行に左右されず、Siユーザーは“自分のお気に入り”をいつまでも大切にする。そしてそれを表現する時、Siユーザーが蓄積してきたものは自分自身の“感性”としてオリジナリティ溢れるものとなる。


Siは単なる『規則』や『伝統』や『常識』や『ルーティン』を表すつまらない心理機能ではない。
Siは経験からなる一人一人違った独特な感性をもたらす創造的でユニークな心理機能でもある。

残念ながら、多くのサイトはこのSiの素晴らしさを十分に説明し切れていない。

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