意識されないということ

話を聞いていると人が意識している内容や盲点が分かる。
全体の見えている範囲はこれだけで、どれだけの存在が“枠外”へと削ぎ落とされてるか知って、なんか「忘れられた存在たち」に寂しくなるな〜。

私の精神が“枠外”に属すなら私は身体だけ属している事になって、精神的な距離感があって疎外感を感じる。


忘れられたもの達という概念

人は大切でないものを知らず知らずのうちに“意識の外”に追いやることを知っている。人が話す上で、ある存在は意識に置かれた前提で語られ、ある存在は意識に置かれない前提で語られる。

人が何かを笑う時、その笑いが「内」を向いているか「外」に向いているかは気付くな〜。
メンバーのことをネタにする時、その笑いは「内」に向く。メンバーがある概念をネタにする時、その笑いは外を向く。
「人」を見るのは「その存在を含む」であり、「概念」を見るのは「その存在を含まない」。

人が何かを攻撃する時、「人」に対しての攻撃は喧嘩をもたらす。しかし「概念」に対しての攻撃は「同じ対象が嫌いな者同士」という団結感を生む。
そして概念への攻撃は、その概念とメンバーとの間に壁を築く。まるで「その概念であれば私達でない」のように。
そのポジション確立に寂しさを感じる。「あぁ、その概念の人、意識されてないんだな〜」と。そして「もしこの場に該当する人がいたとすれば、疎外感を感じてるだろうな〜」と心配になってくる。また、私がその概念に該当するのならば、私はその場の皆にとって“存在しない人”になってしまうのだ。

私は「ある概念」であり、人々は「ある概念」について話す。そうすれば私は場の中の「よそ者」になる。身体はここにいながら、心ではその場に入り込めない。
そういう時「私って大切にされてないな……」と感じてしまう。この隔たりを感じ取ることによって、私は日々“馴染めなさ”を感じている。
私は“全体”(この空間内も、この空間外も)であろうとする。そしてその内のどれかが場から排除されるとなった時、私はその概念の感じる寂しさを感じる。そして人はこれほど簡単に“意識しなくなってしまう”という事が悲しい。

それほどに“追い出すこと”って耐えられない。場からの追放ではない、意識からの追放だ。「ここにいるがいない前提とされる」という意識の隔たりが生む傷は、「離れていても意識している」という場の隔たりよりも大きい。つまりは精神的距離感の話であって物理的距離感などどうであれ構わないのだ。私はただ「精神的に遠い」という状況に誰か何かが位置する事に耐えられない。


対立

「対立」の指し示す範囲は「喧嘩、争い」といった一般的な解釈の域を超えている。私にとっての「対立」は意見をぶつけ合う事を指すというよりかは、精神のもたらす物理的イメージの「対立」である。

「対に立つ」、つまりは「向かい合って立つ」というイメージが浮かび上がることを必死に避けようとしている。

人には横にいてほしいと思う。前で向かい合うのは苦しい。
物理的にだけではなく、概念的にもそうだ。私は人の話を聞きながらその人の意識している視線を自分の中にインプットしようとする。そうするとその人の意識の向きが分かる。他者を介して自分の存在を忘れている時、私は他者との一体感を得る。その視線に「私」は決して映ってほしくない。映ってしまえばそれは「対立」、つまり他者と私には距離があることを思い知らされるからだ。

鏡が怖い。それは鏡は「対立」を物理的に象徴するイメージであるからだろう。
私自身を見るのが怖い。私自身を見つめる視線は「その視線と私は分裂されている」という物理的な証明であるからだ。私は私の隣に立っていたかった……と思うよ、だから「私」を見つめる視線が怖い。


先程の概念の話に戻ろう。
概念を見つめている時、それは明らかに「自分の外」であり「一体化されていないこと」を指す。まぁ、タイプ5が全てを概念化することで自分から切り離すという話にも繋がるが、そうやって概念化されて切り離された対象に私がなる事に恐れを感じるのがタイプ9の私だってことだ。
タイプ9は『意識遣い』でもあるから、憎い対象は概念にしてしまうのだけど、そんな面があるからこそ人から概念扱いされると攻撃のように感じてしまう。
ここがなかなか難しくて、私は人から「概念」と呼ばれたことがあるけど、それは別に全然嫌じゃなかった。だから概念扱いとは何なのか、自分でもハッキリしていないのだけど……。視線の問題なんだけど難しいね。

概念となれば頭の中で好き勝手されるので、そうやって支配される事に苛立ちを感じていたのかもしれない。特定の属性の人への侮辱はその属性に向けての残虐な扱いであるため、その属性であるなら精神を残虐に扱われたのと同じなのだ……。これを精神的な攻撃と呼ぶ。
こんな時、体は共にありながら、もうその時点で心は共にないと思ってしまうかも。あの人達は私の精神と共に過ごすという気がなかったんだな〜って……。

思い出されるということは意識しているということ。そのことについて第三者視点で言及するという事は「意識しながら追い出している=私達と共にあって良いはずがないという意思表明」であると捉える。
そうした時、私は自分を出さないという選択を取ることによって周りの人達の脳内の世界に迎合してる。意識では離されながらも「離されていない人」であるために自己を抑圧することで周りの人に伝える情報を調整する。私の外向けの意識は周りとの調和を保つ。しかし私の心の奥底では、抑圧された「忘れられたもの」が悲鳴を上げている。
その「忘れられたもの」を私だけが持っているという特別感と、「あの人達にとって私の“それ”はどうでもいい」という粗末に扱われた悲しさが併存する。その概念に申し訳ないと謝る。そして同時にこの環境で「別枠」として疎外されていることを知る……。


なんか、全てを包容したい私にとっては「意識されないこと」ってものすごく悲しいな。意識の中に置くことが愛なので。
そんな出来事に日々センチメンタルになっているような気がする。






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