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超短編集-自然-「赤き潮の彼方」

 砂浜を駆け回る子どもの足跡を奪い去るように、波が寄せては返すを繰り返す。大きな手に引かれるようにして、ひとり、またひとりと海を後にする。燦々と降り注いでいた陽の光が、辺りをゆるやかに赤く染め、影を長く伸ばしていく。

 潮の香りが鼻を突き抜ける。それはやわらかで、優しく体を駆け巡る。海風が髪を揺らし、頬に触れる。目を閉じてもなおその存在を覚える太陽が、私を海に留まらせようと手を差し伸べている。
 とうとう海全体は太陽の光の支配下に置かれた。炎のように赤くうごめく海面は、より一層私を誘い込む。その輝きを眺めていては、あっという間に飲み込まれてしまうだろう。けれど、もう遅いのだ。一度虜になったその赤色は、目に焼き付いてしまっては離れない。
 砂に沈みこんだ足は、まるでこの場所に縫い止められたように動かなかった。目の前の景色は、まるで夢のように浮かんでは消え、海が私を抱き寄せているかのように感じられる。時間は辺りの静けさに溶けてゆき、意識がぼんやりと霞んでゆく。足元の砂がひんやりと冷たく、ほんのわずかなところで私をこの地へ引き留める。

 どれほどの時間が経ったのかもわからぬまま、夢のような、幻のような、まどろんだ感情はすっかり波にさらわれてゆき、目の前は漆黒に包まれた。海はもはや私の前ではなく、無限に広がる闇の中に消えていったのだ。
 夜闇の海は、銀色に輝く月を映し出す。たった一本の光の帯が、海の道のように私を誘ういざなう。一歩、また一歩と波の音のする方へ近づいてゆく。一つの足が静かに水に触れた。もう一歩。さらにもう一歩。太陽とは裏腹に、静かに、冷たく、たったひとりで世を照らすのだ。


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