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短編小説「水と猫と同居人」

 この日わたしは、同居人の帰りを待ちわびていた。どうしても同居人でなければ成し遂げられない事象があったのだ。
 わたしは机の上に無造作に投げ出された腕時計に目をやった。時刻は午後五時を回ろうとしていた。同居人が帰宅するまで、まだあと三十分ある。この間、どうやってこの渇きを耐えしのげというのだろうか。
 同居人との暮らしは、二年前の秋に始まった。特別な感情など何もない。遊び疲れて終電を逃した若者が、駅の改札前で茹だっているところを偶然見かけただけだ。わたしはゆっくりとその若者に近づき、隣に腰掛けた。若者は驚きもせず、何も発しなかった。若者はすっかり寝息を立てていた。
 辺りが暗闇から開放されようというとき、駅には始発の電車のアナウンスが流れた。それまでわたしは動くことなく、じっとその若者の横に座っていた。驚かそうとか、悪さをしようとか、そんな目論見など無論、ない。深夜の雑踏に塗れて若者が行き場を失ったように、わたしも静かに息をする場所を探していたのだ。
 しばらくして駅が賑わいを取り戻しつつある頃、やっと若者は目を覚ました。若者は目を擦りながら一つ大きく伸びをした。ついで、隣に見覚えのないわたしが座っていることに気がついた。若者の頭には寝癖による立派な鶏冠が生えていた。胸元のネクタイはひん曲がり、生えかけの髭が針のようにこちらを向いていた。
 やはり若者は驚くことはなかった。わたしはただ黙って隣に座っていただけであり、一切言葉も発していないのだから、無理もない。そしてわたしはひょいと持ち上げられると、なぜか、この若者の家に連れてこられていた。
 同居人の家は、お世辞にも住心地が良いとは言い難かった。あまり好まないカップラーメンの匂いが部屋中に漂い、いつ洗ったものかもわからない洗濯物が、乾ききったまま無造作に干されていた。無論、服はシワだらけだった。
 わたしを連れ込んだ同居人は、特別わたしを鍛錬に可愛がるでも、だからといって適当にあしらうわけでもなかった。必要最低限の生活を与え、それ以外、互いに干渉することはなかった。同居人は毎日出かけていくし、わたしはずっとこの家にいる。そのくらいが丁度よいのだろう。
 いつも同居人は家を出る前に、わたしが生活できるようにあらかたの用意をしておいてくれる。そこにはもちろん、水の用意だってある。適当に動き回ってよいという許しを乞うているわたしは、日頃運動も兼ねて、家中を歩き回っていた。さすれば、自然と身体は渇きを訴えてくる。同居人が用意してくれた水は、こういう場合に活躍するというわけだ。
 ところがいま私は、とても飢えている。身体中の細胞が、これ以上の渇きには耐えられないとざわついている。これはどうにかしなければならない。
 今朝方、いつものように出かけていった同居人であったが、その若者は大失態を犯していた。それはわたしの水の用意を忘れたということだ。若者は頭に生えた鶏冠を治すことなく、寝床から飛び出して行った。つまり、寝坊をしたのだ。
 それだからといって、勝手に連れ込んだわたしの生活を脅かすようなことをして良い理由にはならないだろう。とにかくわたしは、同居人の勝手な行動により、いま、生命を脅かされている。そう、細胞が訴えている。
 わたしは同居人にも同じだけの苦痛を味わわせてやりたいと思った。そう思うと、渇きなんか忘れた細胞が、ぞくぞくとし始めた。これまで同居人に対して悪さをしようなんぞ、微塵も考えたことはなかったが、存外これは面白い。
 わたしは必死になってこの小さな脳味噌をぐるぐると回した。渇きと匹敵するくらい、同居人を脅かす何かはないものかと。そこで家中を巡り巡って、とうとう辿り着いた。ところで、これはわたしと同居人にとっては単なる遊びに過ぎないということをご承知おき願いたい。

 わたしが猫だからといって、侮るなかれ。そう意気込んで計画した悪さは、渇きによって頓挫した。そう、わたしは渇きには勝てなかったのだ。
 きっかり三十分後、帰宅するなり廊下でひっくり返っているわたしを見つけた同居人は、わたしを拾い上げ、ただ一言こう言い放った。
「今朝、僕の目覚ましを勝手に止めたのは、誰だったかな?」


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