短篇小説「あるとき月が目にした話によると」第一夜
毎晩、月はわたしの部屋を訪ねては、一遍一遍、お話を聞かせてくれました。それはたいへん有意義な時間でありましたから、わたしの心の中に留めておくだけではもったいないと思い、こうして筆を取った次第であります。どこまでが本当の話で、どこからが月の理想の話かはわかりませんが、それでも彼のお話を聞いていると、どこか見知らぬ地で暮らしているであろう人々と、深く交流を図れたようなそんな心持ちになったものです。
第一夜
ある夏の晩でありました。この日からわたしの晩には月がお供してくれるようになりました。なんの前触れもなく、ただふらっとやってきたのです。そして彼もこう言うのです「あなたの家へ寄ったのはほかでもない、私の暇つぶしに付き合ってもらいたいと思ったからです」と。この日から彼の不思議なお話は始まりました。
「私は月だが、それはずいぶんといろんなものを見てきたものです。あるときは貧しい村へ行き、またあるときは王の住まう城を照らしてきました。それはたいへん面白いものです」
そこまで言うと彼はおおきく息を吸いました。彼が呼吸を整えるたびに、月はちいさくきらりと輝くのです。なんと美しいものでしょう。わたしはすっかり彼の姿に目を奪われてしまいました。月が家を訪ねて、こんなにゆっくり眺めるなんてこと、よくあることではないですからね。わたしはそれは存分に楽しみました。そうしていると、ふたたび彼が口を開きました。そして一つのお話を言って聞かせました。
『これは今日の話ではありませんよ。遠い昔の記憶の話です。きっとあなたもまだこの地に生まれ落ちるまえ、あれはよく雪の降る一日でした。夜も更け、たいそう冷え込んできますと、ひとりの女性が行くあてもなく公園のベンチに腰掛けにきました。まだ若く、少しあどけなさの残る様子でした。女性の手はかじかみ震え、鼻は寒さで真っ赤に染め上がっているではありませんか。それでも女性は、「今日はとても良い一日だったわ」と言うのです。身なりもたいそう寒々しく、真冬の季節にマフラーも手袋もなく、薄手のコート一枚の姿。満足そうな笑みを浮かべて休む女性を、私は不思議そうに眺めたものです。だって、どこから見てもとても満足な暮らしをしているようには見えませんでしたからね。そうしていると、私にじっと見られていたことに気がついたのでしょうか、女性が私に話しかけてきました。
「そんなにわたしを照らしてくれなくて良くってよ、今日は十分に満足しているのだから」
そう言いながら女性は、震える手でコートの襟を立てました。ちょうど冷たい風が吹き付けたのです。そして私は女性に問いました。
「とてもそうは見えません。あなたはいまにも凍え死にそうではありませんか」
すると女性はこう言うのです。
「大きなものを望むと、それを失ったときひどく悲しまなくちゃならないでしょう。でも、こうしてはじめからなにも求めなければ身軽でちょうどいいのよ」
そうして彼女はそっと左手に視線を下げました。
なるほど、女性はここで一晩、また一晩と、現れるのを待っているのです。こうして寂しさを凛とした姿で隠していれば、いつか立派な紳士が自分を迎えに来てくれるはずだと。けれど雲間に隠れる間際、私は見てしまったのです、女性の髪を結っているとても高価なバレッタに。胸元に小さく輝くダイヤのネックレスに。女性はそれらをうまく隠していたつもりなのでしょう。つまり、そういうことです。けれどこれが懸命なやり方だと、私は思いませんけどね』
ここまで話すと、月はそっと雲の後ろに姿を隠しました。そしてこの晩は、二度とわたしの部屋へやってくることはありませんでした。
第二夜↓
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