見出し画像

エッセイ「感覚」7.人見知る

 胸を張って堂々と道を闊歩する。顔をシャンと上げて、その世界に存在するものをしかと目に焼き付ける。そして、周囲をキョロキョロと見渡すことなく、ただ正直に自分の進むべき道へと歩みを進める───。

 これは、私が「人見知ら」ないために、頭の中で幾度となく復唱する言葉たちである。というのも、人見知りというのは私の人生において、あまり良い影響を及ぼしてくれたことはなく、大事なときに限ってひょっこりやって来て、永遠とそこに居座り続けるヤツだからだ。どれほど「ここは君の来る場所じゃないよ、あっちへお行きなさい」と諭したところで、一度腰を下ろしてしまったら最後、数時間はじっと動かないでいるのだ。「お前さんは暇なのかい?」とつい聞きたくなる。

 たとえばどこかへ一人で出かけたとしよう。ひとり旅っていうのもいいし、どこかへショッピングだったり、◯◯展みたいなものだっていい。ひとりで行動するというのは、なんのしがらみもなく、誰かに気を遣うことなく、自由に気のむくまま呑気にしていられるから、最高に素晴らしい。ただし、それはヤツがやって来るまでの間だけ。

 東京や大阪で開催されるコミック・ブック・コンベンション通称「コミコン」や、全国各地で開催される「文学フリマ」など。洋画も小説も大好きな私のことだから、どちらも参戦したことがあるのだが、やはりここで問題になってくるのが、ヤツの登場、というわけだ。

 前日の夜まで、いや、当日会場で受付を済ますまで、そこまでは意気揚々と「やっと来たぞー!」という気持ちで身も心も軽い。当然のように一人でやってきた私に、作品への愛を止める人など誰もいない!と思ったのもつかの間、あっという間に人の波に押し流されたかと思えば、もうそこかしこにヤツの気配が迫ってくる。ノコノコ、トコトコ、登場したかと思えば、「こいつにしよう!」とでも言うかのように、私の頭の中に棲みついてしまう。せっかくの高揚感もすべて取って去られ、残るのはどうしよう…何も見れない、買えない、なんでこんなところへ一人で来てしまったんだ、という恥ずかしさにも劣らない気持ち。結局、存分に楽しみきれずに早々に撤退するほかないのだ。

 ヤツを撃退するためには、心を強く持つほか方法はない。しかし、それでうまくいった試しもない。どういうわけか、私はヤツとともに生きていくしかないようだ。というわけで、完成しました、これが「人見知る」。


エッセイ「感覚」はこちらから読めます🌷

そのほかのエッセイはこちら🌿

人気のエッセイ「赤毛のアンのように、そして読書休暇を」

いいなと思ったら応援しよう!