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短編小説「聖者の歌」

 それは誰もが聞いたことのあるメロディーでした。けれど、それは誰もが聞いたことのない音で奏でられるのでした。

 ある有名な指揮者が自身の生誕コンサートを終え、優雅で昂揚気分に包まれているとき、帰りの車で事故を起こし、呆気なく死にました。
 事故の原因は、暗闇に飛び出して来た野良猫を避けようと、咄嗟にハンドルを切り、家のフェンスを突き破ったことでした。
 翌朝、この事故は大きなニュースとして取り上げられました。運良く、重症で済んだマネージャーによると、指揮者は事故の直前、「突然横揺れを始め、真っ当な運転ができなくなり、地響きのような声で歌い出した」と言うのです。
 この指揮者は普段から奇行を目撃されていたため、この歌は特段不思議がられることもなく、いつもと変わりなく最後まで過ごしたとしてニュースは締め括られました。

「最近脳鳴りが酷いんだ」
 そう語る青年がいました。彼の友人は問いました。
「それは耳鳴りじゃないのかい?」
 青年は答えました。
「違う。これは脳鳴りなんだ。脳が唸るように悲鳴をあげているんだ」
 友人はなんて答えてあげればいいのか、わかりませんでした。
 青年は立派なヴィオラ弾きでしたから、脳鳴りが続くとまともに演奏ができなくなると、とても悩んでいました。友人の薦めで医者にもかかりましたが、原因はわからず、何一つ解決することはありませんでした。かわいそうなことに、青年の脳鳴りは止むことなく、一年ほど続きました。
 次第に青年は自分はどうかしていると思い込み、手で頭を殴り、壁に頭を押し当て、仕舞いには逆立ちで歩き回るようになりました。青年は「こうして逆立ちしていると脳鳴りが治るような気がするんだ」と言い回りました。
 外でもそんな具合でしたから、大事な手は傷だらけになり、ヴィオラを演奏できるような状態ではありませんでした。けれど、この頃の青年はもうヴィオラの存在など忘れたも同然でした。そしてある日、バランスを崩した青年は頭を地面に強く打ちつけ、血をダラダラと流し、呆気なく死にました。
 この青年の奇行はときたま新聞に取り上げられていたようですが、彼が死んだということは特別世に知らされることはありませんでした。それはきっと、青年はただの楽団員の一人に過ぎなかったからでしょう。

 ある少女は歌うことが大好きでした。生まれた時から音楽に囲まれ、それはもうとてつもない高尚な教育を受けていたと言われています。そんなわけで少女はあちらこちらで歌を披露していました。
 けれど少女の歌は、どれもいまいち上手とは言い難いものでした。それでも好きこそものの上手なれというように、好きなのだから続けていればいつかは上手くなるだろうと、周りは少女を褒め称え続けました。
 そんなことだから、少女はてっきり自分は歌が上手いのだと思い込み、「私は歌が上手いのよ」と町中で吹いてまわりました。この頃には少女は一人で出かけられる年頃になっていましたから、こんなことを広めているだなんて、当然両親も歌の先生も知りませんでした。
 そんなある日、「娘さんの歌を一つ、聴かせてくれないか」と家を訪ねてくる者がいました。両親は大変に焦りました。相変わらず少女の歌はとても人様に聞かせられるようなものではなかったのです。両親は「突然来られても困ります」とその場ではなんとか取り繕ったものの、帰り際訪問者は「あの広場でコンサートでもやったらどうか、金ならいくらでも出す」と持ちかけてきました。
 こんな大ごとになった理由を知らない両親はとても困りました。今まで少女の歌を聴いてきたのは両親と先生、あとは祖父母と心優しい親戚だけだったのですから。けれど、迷っている暇はありませんでした。訪問者は勝手にコンサートの日にちを決め、町中にチラシを撒きました。両親と先生は我々が恥をかかない方法はないかと考えあぐねました。そして妙案が浮かびました。

 コンサートは大盛況でした。けれど少女は登場しませんでした。この日の指揮者は、コンサートの後に妙な音楽に気を取られ事故死したそうです。訪問者の青年は、その後一年もの間、頭が割れるほどの脳鳴りに悩まされ、死んでしまいました。
 では、少女はどうしたのでしょう?両親と先生の妙案はこういうものでした。

「彼女の歌を録音し、コンサートの最後で流しましょう。そして彼女の遺体を天から吊し上げるのです。そうすればあの恐ろしい歌声も、皆が納得してくれるでしょう」

 誰もが聞いたことのないような声で奏でる少女の歌は、今日もどこかのコンサートで呪いの音楽を響かせていることでしょう。


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