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【掌編小説】ホタルの森

「ああ、あのホタルの森にもう一度行きたいなあ」
 そう祐輔が口にしたのは、お昼ご飯の準備の最中だった。

 真っ暗だ、何も見えない。
 森の中を歩いていくと、小川の流れるサラサラという音が聞こえてくる。
 たぶん、あっち。
 私は遠い記憶と、その音に従って歩き続けた。
 やがて強い水の匂いと共に、視界が開けた。
 息を呑む。
 碧の光が無数に輝きながら、辺りを飛び交っている。
 小川の水はホタルの放つ光にゆらゆらと照らし出され、暗闇の中で一面、碧色に揺れている。
 私はサンダルを脱ぐと、素足になって小川に入った。
「つめたい」
 気持ちいい。私は水の中をバシャバシャと歩いた。
 シフォンのスカートが濡れたけど、気にせず歩いた。
「お姉ちゃんもホタル見にきたの」
 突然、後ろから声をかけられてぎょっとした。
 振り向くと小さな少年が立っていた。
 5歳くらいか。ホタルの光だけでは、顔までははっきりとわからなかった。
「そうだよ。君も?」
「うん! まみちゃんといっしょにね、きたんだ。もうすぐ帰るからもういちど見たかったんだ」
 ぼくも、というと少年も靴と靴下を脱いで小川に入ってきた。
「うわあ、きもちいいね!」
 少年の視線が私の視線と交わる。顔がはっきりと見えた。遠くの方で祭囃子の音が聞こえた気がした。
「ぼくね、とおくにいくんだ」
「うん」
「まみちゃんとももう会えなくなっちゃうの」
「それは、寂しいね」
「ありがとうって、伝えておいて」
「うん、いいよ」
 私は思い出す。
 ホタルはもうこの小川にはいない。だって、森自体がもう存在しない。川は埋め立てられてしまった。
「ねえ」
 顔を上げると少年はもういなくて、私は空き地に立っていた。
 私は素足で、足もシフォンのスカートも濡れてはいなかった。
 私は泣いた。わあわあ泣いた。地面に突っ伏して泣いた。
 まみちゃん、と、そう私を呼んだ彼は今日、お昼ご飯も食べずに逝ってしまった。生まれつきの心臓の病気だった。
 祭囃子は遠いあの日の記憶。今日は何も聞こえない。
 涙に濡れた顔を上げてハッと気づく。
 碧色の光がひとつ、何かを伝えるように私の目の前で輝いていた。
「そうか、……ありがとうって、言ってたよね。わたしも、ありがとう、……祐輔」
 光は柔らかく闇に溶けて消えた。
 私は立ち上がると歩き出した。泣きながら、素足で地面を踏みしめて。

[END]

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