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30.片倉小十郎景綱は、神様だった。

伊達政宗公の家臣であった片倉小十郎景綱は、神職の家柄でした。伊達家が米沢の領地を持っていた時、八幡宮の神職でしたが、現在伝えられている成島八幡宮や米沢八幡宮ではなかったようです。山形の歴史研究者が調べたところ、古い絵図が見つかり、そこに片倉山神社や八幡宮と書かれた文字のとなりに、片倉前社と書かれており、ここが片倉小十郎がいたところではないのかと、新たな発見に湧いています。

そもそも、米沢時代の伊達家のお城は、高畠にあった霞城ではなかったのだろうか、とか新たな研究が進んでいます。現在の米沢城は平城で、戦国時代は守りの堅い山城なはずです。米沢城は関ヶ原の合戦後に建てられた、上杉氏の居城でしょう。

さて、片倉小十郎景綱が神様だったというお話しに戻すと、片倉という名前が神様の名前なのです。現在片倉家十六代目頭首である仙台青葉神社宮司の片倉宮司さんと一緒に諏訪大社へ行ったとき、諏訪大神の子供の片倉辺の神様が祭られている神社があり、片倉の性は神様の名前だったということがわかりました。

だから片倉小十郎景綱が神様だったということではありません。どういうことかと言うと、政宗公が霊として降りて来ているお話しは、このノートで何回かお話ししていますが、片倉宮司さんのところに降りて話した時に、「景綱は今どうしておりますか」と尋ねたそうです。すると、「しらん」と素っ気ない返事だったそうです。

なぜ片倉宮司さんが尋ねたのかと云いますと、このノートを始めから読んでいただいている方はご存じと思われますが、この世に転生している政宗公の側近の武将たちは、私の茂庭綱元と伊達成実、そして片倉宮司さんの片倉小十郎重綱です。重綱は景綱の息子で片倉家二代目です。ですから初代の景綱がこの世に出ているのか、霊界で何をしているのか気になって政宗公に尋ねてみたわけです。

今、ふっと気づいたのですが、今回初めてこのノートを読まれた方は、何か変だと思われたんじゃあないかな?あの世の伊達政宗と会話をしている?そんな馬鹿な、このノートは何かの宗教団体かな?とか怪しいことを書いている。私たちは転生や霊との会話が普通の状態なので、当たり前に書いてしまっていますが、一般的には、不思議な非科学的なオカルトオタクの範疇のお話しですよね。

ここから続けて読んで下さる方は、私たちの仲間とは決めつけたりはしません。ただ、世の中には不思議な体験をしている人たちもいるんだな。と、遠巻きに見て、信じる信じないは関係なく読んで下されば良いです。年を重ねて体験したことを、何かに残しておきたいという望みからこれを書いております。青葉神社の宮司さんも同じ考えですので、実名で載せております。

話しを戻すと、片倉宮司さんは、政宗公が神上がりをされたと、近年申されています。20年前には、政宗公は修行中だと話されていたのですが、私たちは前世で浮かばれない人たちの霊を弔うお役目を担ってそれらのミッションを行ってきました。昨年には、ほとんどのミッションは終了したと感じていたところで、政宗公の神上がりの話しがでました。

結局は、政宗公の浄化の手伝いを、私たち転生人が行ったようです。神上がりというのは、霊界での上の界に上がるということです。3次元から上が、霊界ですから政宗公がどの次元に上がられたのかはわかりませんが、高次元の霊を神と私たちは呼んでいます。神と上はどちらもカミと呼びます。

その次元の上は見ることができないようです。下は見ることができるし、ある程度の制約もあるようですが、会話や移動もできるようです。しかし、自分より上の次元は見ることができないので、初めに片倉宮司さんが政宗公に片倉小十郎景綱の消息を尋ねた際に、「しらん」と素っ気ない返事をしたのは、景綱は既に政宗公より上の次元にいたためだということがわかりました。つまり、景綱は神様になっていたということです。

今回も、わけの分からないお話しを読んで下さりありがとうございます。深く感謝いたします。

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